チーン

 

 高子は台所で夕食の準備をしていた。今日は手作りのグラタンだ。広々としたキッチンではやる気も違ってくる。

 このマンションに引っ越してきたのは三日前のことだ。高層マンションの十三階で、窓からの眺めも素晴らしい。夫の安月給でも十分支払える家賃で、3LDKのこんな豪華な部屋に住めるなんて、今でもなかなか信じられない。同じ建物内でもこの部屋だけが特別に安かった。なんでも、前に借りていた人が自殺したということだった。薄気味悪いとも思ったが、安さには勝てない。

 居間から娘の声が聞こえてきた。

「ママー、怖いよー」

 またか。高子は少々うんざりしながらも包丁を置いて、娘の元へ向かう。

「どうしたの」

 だが娘は眠っていた。どうやら寝言だったようだ。悪夢を見ているのだろうか、眉をしかめている。

 三才になる娘の千恵は臆病な性質だった。初めてここを訪れた時、千恵は「部屋に恐い人がいる」と言って泣き出し、両親の説得にも耳を貸さなかった。部屋の隅に青白い顔をした男が座っていて、こっちを見ているということだった。その首筋からは血が流れていて、手には血のついた包丁が握られているという。

 高子は自殺したという前の入居者のことを思い出したが、環境が変わったことで千恵が過敏になっているのだろうと解釈した。実際、高子も夫もこの部屋を気に入っており、怪しい雰囲気など全く感じなかった。

 千恵の体にタオルケットをかけ直し、高子は台所に戻った。

 器に盛ったグラタンをオーブンレンジに入れ、スイッチを入れた。

 その時になって、高子は包丁がないことに気づいた。

「ママ、助けギャアアアアア、ブッ」

 居間の方から凄い悲鳴が聞こえ、そしてすぐに途切れた。

 流石に高子もゾッとして、千恵の元へ駆けつけた。

「どうしたの千恵」

 天井からぶら下がっていた何かに、高子はぶつかった。

 それは、逆さに吊られた千恵の体だった。両の足首に、縄がかけられていた。縄は天井のフックまで続いている。

 床に赤い色彩が満ちていた。ボタ、ボタ、と、落ちていく液体が、赤い海を広げていく。なくなったと思っていた包丁が、その中に埋もれていた。

 千恵の首がなかった。

 高子は呆然と、その光景を眺めていた。悲鳴を上げることも忘れていた。

 ダイブするような格好のまま揺れる千恵の、下に向けられた切断面から、血が、滴り続けている。

 千恵の頭部は、居間にはなかった。

 高子は周囲を見回した。

 点々と、血の跡が延びている。それは、何故か台所の方まで続いていた。

 振り向くと、台所のテーブルの上に、オーブンレンジに入れた筈のグラタンの器が置いてあった。

 ボン。

 オーブンレンジが妙な音を立てた。まるで、中に入っている何かが、熱で破裂したような音だった。

 チーン。

 オーブンレンジが出来上がりを知らせてきた。

 

 

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