きっかけは、本当に些細なことだった。
ラルハットは重力一点集中型で、宇宙空間の中心に巨大な星が一つあるだけの世界だ。当時は文明管理委員会の支配下にないフリーゾーンであった。人口は三千四百億で、カイストも三千万人以上いた。
星の正極側……星の熱放出孔に近いため比較的温暖な側にある小国エンの領内に、城塞都市エトナとジーの村は隣り合っていた。当時エトナの人口が約十五万四千人、ジーが二千三百六十一人であった。
検証士の双璧の白い方とも呼ばれる『図書館長』ルクナスによると、それは正暦百十二億三千六百二十七万八千八百五十二年第二百三十一日、十五時四十五分から五十二分の間に起こったことだという。
ジーの村の娘が二人、エトナとジーの間にある林で木の実を採っていた。娘達の名はシロナとメーリで、百億年戦争の発端となった者としてカイスト達の間でも長く記憶されることになる。
その二人に、近くを通りかかったエトナの若者五人がからかいの言葉を浴びせたのだ。内容は文明レベルの低いジーの生活ぶりと、娘達が着ていた民族衣装のことだった。
ジーとエトナとは二十九キロしか離れていなかったが、特に深い交流がある訳でもなかった。貿易が盛んで時に機械製品まで見ることの出来るエトナに比べ、ジーは農耕と狩猟主体の自給自足生活であった。たまにジーの者が毛皮や手織りの衣服を売りに行く程度のことだ。科学に頼っても何も良いことはないというのがジーの村に伝わる戒めで、文明レベルの混沌としたフリーゾーンではよくある自制だった。
文明レベルについてはともかく、娘達の訴えを聞いてジーの村人達は怒った。ジーの民族衣装は千年以上守り通してきた彼らの伝統であり誇りであったからだ。赤と黄色を基調として、裾が鳥の尾のように地面すれすれまで伸びたそのデザインの是非については、後世になってカイストの識者達が批評しているが、そんな暇人達の戯言はどうでもいいことだ。
ジーの村の若い男達がシロナを連れ、短剣を隠し持ってエトナを訪れたのが翌日の午後のことだ。そこで娘をからかった若者達のうち二人を見つけて裏通りに引き摺り込んだ。ジーの男達は怯える二人の口をナイフで裂いた。左の口角から五センチほど、適切に縫合すれば少なくとも機能的には回復可能な傷であった。
互いにとって不運だったのは、この口を切られたうちの一人の父親が、エトナの有力者であったことだ。激怒した彼は息子と二百人の私兵を率いてジーの村に乗り込んだ。
深夜、松明の揺れる明かりの下に、叩き起こされたジーの村人全員が集められた。甲冑と刀槍で完全武装した兵達が村人を囲み、エトナの若者の口を裂いた七人の男達は棍棒で滅多打ちにされた。ジーの村長の必死の懇願により命だけは助けられたが、七人は右手首を切り落とされた。エトナの有力者とその息子はジーの者達に向かって暴言を吐いた。七人のうちの一人は高熱を発して三日後に死んだ。
この時、エトナの有力者の下で私兵隊長を務めていたのがタギスナールというカイストの戦士だった。二千二百才のCクラスとはいえ一般人同士の争いにカイストが関与したことが、史上最長となった大戦争を引き起こしたと批判する向きもある。しかしタギスナールは有力者との間に交わした総合的傭兵業務契約を守っただけであり、非難は不適切であるとする意見が大多数であった。ちなみにタギスナールが歴史上に名を残しているのはここだけで、一万才にも達することなく墜滅している。
手ひどい屈辱にジーの村は震えた。この百年ほどは他の地域とのいざこざはなかったのだ。村長の制止を聞かず、ジーの男達の中で一番の戦士が復讐に発った。隊商に混じってエトナに入り十七日間潜伏した後、ジーに屈辱を与えた有力者の息子を刺殺した。その夜のうちに父親の方も狙って忍び込んだがタギスナールに捕縛され、怒り狂った有力者によって体を切り刻まれた。ジーの男は最期まで呪いの言葉を吐き続けていたという。
エトナの有力者はすぐさま報復に出た。私兵達がジーの村を焼き払い、手当たり次第に殺戮した。二千三百の人口が四百以下となった。村長を含め、男は年齢を問わず全員殺された。タギスナールが何を思い剣を振るっていたかは検証士も記録に残していない。
襲撃者達が去って四時間後、まだくすぶっていた炎に呼び寄せられるようにやってきたのがカート・ナッセンというカイストであった。彼はこの時四十八万才のBクラスで、男気のある剣士だった。カートはジーの女達から事情を聞いた上で復讐を請け負った。すぐさま出発した彼は騎馬と徒歩の混じったエトナの私兵団が都市に帰り着く直前に追いつき、二百人を十五秒で皆殺しにした。タギスナールは剣を打ち合わせる暇もなく倒され、エトナの有力者の生首はジーの村に届けられた。ジーの女達は生首を焼いて死者達の魂に捧げた。
カート・ナッセンは次にすべきことをわきまえていた。最初の契約を果たした彼は次の展開を予想して契約更新を提案した。ジーの女達三百六十四人を守り抜く契約だ。
エトナに雇われていたカイストが有力者とその私兵の全滅を確認し、今後の対応に議会は紛糾した。城塞都市の門は閉じられ、よそ者は追い出された。その夜のうちにCクラスのカイストが使者としてジーを訪れ、カート・ナッセンと面会して村の意志を確認した。
カートは欲張らなかった。最初に娘達をからかったエトナの若者は五人だったが、報復を免れている三人については追及せず、今回の件はエトナの有力者とジーの私的な争いであったとして、これ以上エトナと事を構える気はないことを表明した。ただし、エトナ側が攻撃してくるならば、ジーを守るため全力を尽くすと彼は付け加えた。
エトナとジーの争いについては双方を領地とするエン国の王にも伝わった。王国議会にエトナからの使者も参加し、決定は六時間後に下った。エトナは有力者を失った報復を求めており、またそれは小村如きに舐められたくないという貴族達の要求でもあった。また、ジー側も大殺戮を受けた恨みを簡単に忘れるものではなく、停戦を命じても双方に遺恨を残すだろうと思われた。エン国にとってエトナは重要な貿易都市だが、ジーの村から得るものは特にない。ならばこの際ジーを潰してエトナを生かそうというのが結論だった。ジーについたカイストはBクラスのカート・ナッセン一人で、エトナのカイストに王国のカイストも派遣すればBクラスが十人を超す。負ける要素はない筈だった。義に沿わない戦いは起こすべきではないというカイスト達の忠告を無視して、一般人の雇い主達は彼らに攻撃を命じた。
しかし、カートがエトナの有力者と私兵団を殺してから、エン国の命で討伐部隊がエトナのカイストと合流し、ジーに到着するまでの八十六時間の間に、状況は変わっていた。
エトナ側のカイスト、Bクラス十二人とCクラス三十六人を迎え撃ったのはカート・ナッセンを初めとしたBクラス四人とCクラス六人であった。カイストは常に自分の力を役立てる機会を求めている。紛争の噂を聞いて駆けつけたカイスト達は劣勢のジー側についたのだ。
人数に差があっても、カイストの戦いは個人の能力が勝敗を左右する。特にカート・ナッセンは獅子奮迅の活躍を見せた。血みどろの乱戦を辛くも制したのはしかし、エトナ側だった。スプリングソードでカートの心臓を貫き首を切り落としたのはエン国王の親衛隊長を務めていたBクラスの剣士セオリアで、最後に残ったカイストである彼もまた致命傷を負っていた。息絶えるまでの三分十七秒でセオリアは律儀に職務を果たそうとした。即ち、ジーの女達三百六十四人のうち二百十六人を殺害したのだ。彼がその気ならジーを皆殺しに出来たのではないかということも議論の対象になっているが、セオリアは転生後もその問いに答えていない。
ジー側のカイストが全滅したことを、エトナで待機していたカイストの一部は知っていた筈だ。少なくとも探知士が二人いたのだから。その時Cクラス数人でも出撃していれば、残りの女達を皆殺しにすることは可能であったろう。だが彼らはそれをせず、雇い主達の指示を待った。
ジーの女達の恨みは極限に達した。そこへ新たなカイストが次々に到着し加勢を申し出た。女達がカイストの戦士達に求めたことは、城塞都市エトナの殲滅と、エンの国王の抹殺であった。それだけの正当性があると判断し、カイスト達は承諾した。
ジー側にカイストが集まるにつれ、エトナ側につくカイストも増えていった。彼らがエトナを選んだのは、ジー攻撃を命じたのは一部の支配者層であり、エトナの住民に罪はないと判断してのことだ。また、ジー側の勢力が強大化したので劣勢な方についただけというカイストも多かった。彼らは戦いと祭りが好きで、自分の力を発揮する機会を常に求めているのだから。
幾度かの小競り合いを経て総力戦が始まったのは、セオリアが息絶えてから四十六時間後のことであった。この時点でエン国の王はジー側のカイストにより暗殺されていた。城塞都市エトナの攻防戦はジー側カイスト四百八十七人、エトナ側カイスト三百五十三人で開始された。ジー側はエトナの民を皆殺しにすることを目指し、エトナ側はそれを守り抜くことを目指した。戦士に魔術士、結界士探知士統制士増強士達が協力し合い或いは競い合い、刃と魔力と特殊能力の飛び交う乱戦が繰り広げられた。それは武装した一般人など入る余地のない魔戦だった。エトナの住民達は荒れ狂う空を見上げ雷鳴を聞きながら、どうしてこんなことになったのだろうと考えていた。
戦闘は途切れることなく続いた。エトナの住民を消し去るための破壊光線を結界が防ぎ、その結界を切り開いて進もうとした剣士が我力強化された矢に射られ息絶える。気配を消して地中から近づく戦士を探知士が発見し呪術士が腐蝕させる。Bクラスの戦士が投げた槍はエトナ側のカイストと城壁と住民数十人を貫いた。エトナ側からジー攻撃に向かうカイストもいた。エトナが落ちる前にジーを皆殺しにすればジー側のカイスト達は契約失効すると考えたのだ。しかしそれを予測してジーの住民を守るための陣も張られていた。戦闘はエトナの攻防戦とジーの攻防戦に二分された。
エトナの住民の一部を秘密裏に避難させようとする動きもあった。エトナが陥落しても少なくとも全滅は免れるからだ。だがジー側も探知士を伴って戦士達が追う。同時にジー側も女達を分散して避難させようとしていた。それをまたエトナ側のカイストが追う。戦火は次第にラルハット中に広がっていく。
ここ数百年ラルハットでは小規模な戦闘しかなかったため、退屈していたカイスト達が我先に飛びついた。劣勢な側につく者、優勢な側につく者、いがみ合っている因縁の相手と逆の側につく者。酒場で飲んでいたカイスト達がどちらに参加するかを宣言した瞬間から殺し合いが始まることもあった。人間同士の瑣末な争いが、カイスト達の血みどろの祭りに置き換わっていった。
神の領域・Aクラスカイストの参加は攻防戦から二十七日後、三千万人いたラルハットのカイストの二割強が死亡した頃だ。Aクラスは普通、正当な理由がない限り格下の戦いに参加したりしない。子供の喧嘩に大人が介入するようなことを、彼らのプライドが許さないのだ。
その不文律を破ったのはトートスという男だった。『突風』という二つ名の、衝撃波を操る戦士だ。当時ラルハットには十七人のAクラスがいたとされるが、参加理由についてのトートスの発言は「騒がしくて眠れやしない」だったという。
ジー側についたトートスはエトナの防御結界を吹き飛ばし、残っていた住民二万六千人を城塞ごと消し去った。しかしこれで終わりではない。逃げ散っていたエトナの民を求めてトートスは一人で駆け回り、エトナ側八十二人のBクラスと無数のCクラスを殺したが、集中攻撃を受けて四十五時間後に力尽きた。
トートスの死体を足で踏みつけ、エトナ側のBクラスが「Aクラスも大したことないな」とうそぶいたことが、Aクラス達の怒りに火を点けた。発言の主サズ・メイズは大馬鹿者として歴史書に記録されている。
情報はすぐに飛び、二十四時間のうちに六人のAクラスがジー側に参加した。彼らはエトナの民など目もくれず、エトナ側のカイストを殺戮し始めたのだ。四百万人ほどいたエトナ側カイストが八時間後には二万人以下になった。Aクラスの起こす天変地異が無関係の一般人を巻き込みラルハットを焼いていった。
続いてエトナ側にAクラス八人が参加した。Aクラスの力を充分に知らしめたとの判断と、一方的な殺戮を防ぐためだ。Aクラス達は荒野で対峙し、特にジー側の魔術士ラライミィとエトナ側の戦士ガソナの戦いは、ラルハットの大地の四分の一を消滅させたという。Aクラス達がやり合っている間に、Bクラス・Cクラス達は敵方の民を皆殺しにすべく人口の減った世界をさまよっていた。
エトナとジーの戦いが収束しなかった理由の一つは、世界間のゲートを使って、新しいカイストが他の世界から次々にやってきて参加を続けたためだ。戦いが大規模になるごとに、噂を聞きつけたカイスト達がはるばる世界を渡ってきた。彼らはすぐエトナ或いはジーの民の生き残りと面会し契約を結んだ。稀に、契約に来たふりをして民を殺そうとした敵側のカイストもいたが、偽る者の強さなど高が知れている。護衛のカイスト達にすぐ斬り殺された。
十年が過ぎ、一旦戦いが終わったかのように見えた。エトナの民は二十数人残っていたのにジーの民が全滅したと思われたのだ。それでもジーのために復讐を果たそうとするカイストは残っていたが、契約者がおらず新しい味方の参加がないため次第に劣勢になっていった。
だが更に五年が過ぎた時、一人の少年がジーの民として名乗りを上げた。ジーの女と、ジーに最初に味方したカイストであるカート・ナッセンの間に出来た子だというのだ。カートは短い時間にやることはやっていたのだと、当時のカイスト達は敵も味方も苦笑したらしい。
検証士によって少年の出自が証明されると、下火になっていた戦争が再び激化した。劇的な復活が気に入ってジー側に参加するカイストが多く、形勢は逆転した。民を絶やさない試みも進められた。多産を促すだけでなく魔術士が強化を施して一般人にカイスト並みの力を与えたり、魂を別の場所に保管させたりした。
民を別の世界に退避させたのは、エトナ側が先であった。ジー側についたAクラス科学士の『冷獣』タルザス・ロー・アープは、我力抵抗性を持つ毒素と病原菌をラルハット中にばら撒き、完全密閉隔離保護したジー側のメンバーを除くカイストと一般人をほぼ全滅させた。しかし、この恥知らずな無差別大殺戮行為が完遂される前に、エトナの民はカイストに連れられてゲートを抜け、複数の異世界に散っていた。本来ならラルハット内だけで片をつけるべき問題が、外部にまで飛び火したのだ。
これをきっかけにして、戦いは四千世界中に拡大していった。多くのカイストがこの空前の祭りに参加して殺し合った。これに参加しない者は腰抜けと呼ばれるくらいに。唯一の救いは、一度死んだカイストは転生しても同じ戦いには参加出来ないという不文律が破られなかったことだ。これが出来るようになっていれば永遠に泥沼状態が続いたことだろう。
戦いは文明管理委員会の支配世界にも波及した。一般人への被害を憂慮した長老達は支配世界からのカイスト締め出しを強めると共に、介入して一方の勢力を後押しすることで戦いを早く終わらせようとした。委員会が加担したのは当時優勢だったエトナ側で、この選択は後世になってもカイスト達に非難されている。
しかし一方の勢力が強まれば、もう一方に大勢のカイストが参加する。戦いは終わらなかった。世界を股にかけるエトナとジーの殺し合いは続き、民を追う者と逃がす者の攻防も続いていた。敗れたカイスト達は協力出来ないながらも、自分の参加していた勢力が勝って自分の行為が少しでも報われるように、未参加の親しいカイストを勧誘し続けた。
戦争開始から十二億年後の正暦百二十四億年、文明管理委員会はついに『剣神』ネスタ・グラウドに参加を要請した。ガルーサ・ネットの主催するカイスト・チャート、無差別部門の一位を当時キープしていた怪物。つまりそれは、四千世界で最強ということであった。
ただし、このネスタ・グラウドという剣士は非常に扱いにくい男だった。カイスト達に悪意を持って呼ばれるもう一つの綽名は『素振り王』で、生きている時間の殆どを修行に費やすのだ。それも、寝食も取らず一瞬たりとも休まず何万年もの間、上段斬りの素振りだけを延々と続け、予め決めた期間が終わると一年だけ休むといった具合に。ネスタの技は上段斬りだけだが、それだけのために全てを捧げ尽くした一撃はどんな相手も真っ二つにしてみせた。究極のワン・スキル・カイストによる強念曲理は、「相手が斬られて死んだ後でネスタが剣を振り下ろした」「別の世界にいたのに斬られた」「真っ二つに斬られた男の右半分と左半分が別々の世界に転生した」などのエピソードに象徴されている。
素振りの終了時期を待ち構えていた長老の要請に、ネスタ・グラウドは条件つきで引き受けた。次の素振り開始予定日までの一年間だけ、委員会の指示に従うというもの。ネスタの興味の対象は自身の強さだけで、世界や他人の存在はその強さを測る指標でしかなかった。
ネスタは圧倒的な働きを見せた。出くわした敵はAクラスでも即死だった。彼は探知士に誘導されながら剣を振り続け、一年間で一億六千万人のカイストを斬り殺した。後方で安全に立ち回っていた『冷獣』タルザス・ロー・アープも、多くの弟子を指揮して呪いを振り撒いていた『呪殺神』サネロサも、自ら率いる狂信的正義執行組織ごと参加していた『光の王』ハイエルマイエルまたはハイルマイルも、究極の男性色技士にして強力なハーレムを擁する『愛皇帝』ルーファンも、皆この期間にネスタに斬られた。
強敵のいる場所までネスタを連れ回したAクラスの探知士『風』ショーリーは、委員会の依頼を受けた時に「これでも間に合わないだろう」と語ったという。実際その通りになった。ネスタ・グラウドはジー側のカイストの殆どを斬り殺したが、皆殺しにすることは出来なかった。一年の契約期間が経過してネスタは平然と引き篭もりの修行に戻っていった。その際、素振りの余波を食らってショーリーも斬り殺された。
戦いは数十億年経っても続けられていた。多くのカイストが死亡離脱したため一時期ほどの規模ではなかったが、常に何処かの世界ではエトナとジーが殺し合っていた。いつしか本来の民はいなくなり、カイスト自身がエトナとジーの住民に仲間入りする形式となっていた。一般人の契約主がいないのに、カイスト達が自身のために戦っているのだ。ちなみに『究極の黒魔術師』または他の魔術士から畏怖を込めて『暗黒塔』と呼ばれるザム・ザドルは、エトナとジーのどちらにも参加することなく、時折戦場に現れてデータを採っていたという。
識者を気取るカイスト達は、終わらぬ戦争を本末転倒だと非難した。こんな馬鹿馬鹿しい戦いはやめなければならないと。しかし、罵声と嘲笑を浴びても進み続けるのがカイストの愚かな本質であり、宿命だった。文明管理委員会も既に匙を投げていた。
状況が一変したのは正暦二百十二億年、エトナとジーの争いが始まって百億周年まで残り七年という時期だった。
『蜘蛛男』フロウがエトナ側に参加したのだ。フロウの出立は古く、一説によると正暦成立以前だとも言われている。『気まぐれフロウ』とも呼ばれ、味方にするにも敵に回すにも最も厄介な男であった。行動に一貫性を持たず平気で約束を破り、契約無視など当たり前で、特に理由なく味方も依頼人も殺す。しかもフロウは厳密な意味で倒されたことがなかった。カイストによって殺された場合、通常は魂レベルでのダメージが残る。転生までにある程度の休眠期間を必要とし、また転生しても数千年からひどいものでは数百万年以上、傷痕や障害が残るのだ。フロウにはそれがなかった。殺された四十五分後には成肉していて相手に報復したというエピソードは有名だ。万が一フロウを殺せたとして、それをエトナとジーの戦いからの離脱と意味して良いのかどうか。そしてそれを決めるだけの強制力を誰も持たなかった。彼の敗北が定義出来ないため勝敗も成立せず、カイストチャートにはランキングされていないが、フロウに狙われて無事でいられるカイストは殆どいなかったのだ。
百億年も傍観していたフロウが何故このタイミングで参加を決めたのか、彼の心情は不明のままだ。ただ、当時の彼の発言には悪ふざけでなく本気で戦争を終結させようという意志が感じられる。何者かの要請があったのではないかとも言われているが、『図書館長』ルクナスにも真相は解明出来ず、『裏の目』ガリデュエもノーコメントを貫いている。大多数のカイストの見方は、単なる気まぐれだったのだろうというものだった。とにかくフロウはエトナへの参加を決めると、味方であるエトナ側のカイスト達へ向けて宣言した。エトナは自分一人で充分であり、他の者は全員抜けろ、そして以降の新しいカイストの参加は認めない、と。
大半のカイストがそれに従った。既に依頼人のいない戦いであり離脱が名に傷をつける恐れが少ないのと、何よりフロウと関わるのが嫌だったからだ。離脱に異議を唱えたカイストはフロウに瞬殺された。文明管理委員会も派遣していたカイストを引き戻した。誇り高い委員会が『気まぐれフロウ』の言に従ったとは信じがたいことだが、無敗のネスタ・グラウドが万が一にもフロウに殺されることを恐れたのではないかと噂されている。或いはフロウに依頼したのが委員会であったのだろうか。
フロウは一人で大殺戮を敢行した。最初の一秒でジー側カイストの八割、一万三千人が即死した。フロウはエトナへの参加表明前に、予めジー側のカイスト達の首に糸を掛けていたのだ。フロウ自身の血で作った糸は細くすればAクラスでも気づくのが容易でなく、体に引っ掛かったまま柔軟に何処までも伸びていく。ゲートを通過して別の世界に移った後も、更にその次の世界に渡っても。そしてフロウが糸の端を一気に引けば、糸は突如鋭利な凶器と化して無数の生首を作り上げるのだ。運良く糸を掛けられなかった者、事前に気づいて糸を切っていたAクラス、そしてフロウ参加の噂を耳にして慌てて糸を探した察しの良い者達が生き残った。だが彼らは気配を消して忍び寄るフロウの奇襲によって次々と倒れていった。フロウは探知士としての力も持っているらしく、彼に目をつけられて逃げおおせる者は殆どいない。四千世界を巡回してフロウはジー側のカイストを殺し続けた。あまりにあっけなく殺されるので、ジー側に敢えて新しく参加するカイストもいなくなってしまった。
いや、最後にただ一人、ジーに参加した男がいた。
それが、当時五十九億才の『不死者』グランだった。
不死身。それはカイストの戦士達が最も憧れる称号の一つであろう。どんな攻撃でも無傷で受けきってみせたい。腕が飛んでも首が落ちても内臓が空になっても平然と動き回れるようになりたい。すぐ元通りに再生してみせたい。その憧れを実現させるため彼らは修行する。切断された手足を繋ぎ直したり再生させることは、それほど困難なことではない。しかし同時にカイストは、相手に再生させないように我力を込めて攻撃する。そのせめぎ合いの結果、多くの戦士達の手足が生え戻るのは来世以降となり、脳や心臓などの重要器官を破壊されれば死に至るという無難な実情に落ち着く。脳を胴体に格納したり、重要器官を分散配置させたり一ヶ所にまとめて守りやすくしたり予備を用意していたり、体外に出して別の場所や亜空間に保管したりするカイストはいる。また、脳や心臓を潰されても首を落とされても再生するカイストは確かに存在する。しかし、彼らも何千回と滅多切りにされたり、全身を溶かされたり肉体破壊とは異なる呪殺術を受けたりすれば結局は死んでしまう。カイストが手に入れられる不死身とは、残念ながらその程度のものだ。カイストは転生するので、そこまで必死になって不死身だけにエネルギーを注がなくてもいい、ということもあるだろう。
だが、本物の不死身を、ほぼ究極的に体現した男がグランだった。彼は科学兵器や我力の乗った刃を防ぐ我力防壁を持たない。一般人に殴られても傷を負う。ただ、傷は再生する。どんな傷も、瞬時に。一度浴びたら死ぬまで消えないという魔神カ・ドゥーラの炎に焼かれても再生し、一個の細胞からでも再生し、細胞すら跡形も残っていなくてもやはり再生する。半端な戦士の手では剣が食い込んで通り過ぎたそばから再生するので、相手は幻を斬ったのではないかと錯覚するという。グランの再生力は魂にも及び、精神変質系や呪殺系の魔術も意味を成さない。焼かれても刻まれても素っ裸にならずに済むよう、彼の服は『神工』レオバルドーの手による特注品で、防御力は皆無だがグランの生命力の一部を使って自動修復するように出来ている。
そんな凄まじい力を持ちながら、グランの名はカイスト・チャートにはランキングされていない。何故なら彼は、戦わないカイストだったからだ。『不死者』を殺してみせようと、たまにカイストの戦士が勝負を挑むことがある。そんな時グランは「じゃあ、適当にやっててくれ」と告げ、茶を飲み、飯を食い、切り刻まれながらも夜になると寝てしまう。翌朝になって目を覚ました頃には大抵の挑戦者は泣いて土下座しているか、自殺して転がっている。攻撃が全く通用しないことで自信をなくして墜滅してしまわないように、グランは泣いている挑戦者を「気にするな。あんたは無抵抗の相手を斬るのが得意じゃないんだろ」と慰める。
グランは、そういう男だった。
三十八億才以降一度も死んでいない彼がこの戦争に参加したのは勝つためでなく、ただジーを存続させるためだった。既にジーの住民はいないが、彼らが無残に踏み潰されながら抵抗した、その長い歴史の結末が敗北というのはあまりにも救われないではないか、というのがグランの主張だった。そして彼はフロウの宣言に同意し、戦争をこの二人だけで続けようと提案した。
この戦争は、『蜘蛛男』フロウの圧倒的不利となった。フロウの血の糸は敵の殺害に有利だが、その効果は糸の究極的な細さ・鋭さによるもので、殆ど我力が乗っていない。一説によると、血の糸一メートルに含まれる我力を測定したところ、たった三ピコアイル……一兆分の三アイルであったらしい。一般人の魂が保有している我力の統計を取り、その平均を一万アイルとしたものが元々のアイルの定義であり、カイストの攻撃力としては信じがたい低値であった。切断された肉体を繋ぎ直すのが得意なカイストには、血の糸は効果を発揮しない。そんな相手にフロウは、溶解作用を持つ霧状の毒液を至近距離から吹きつける。これで殆どの相手は死ぬ。『不死者』グラン以外は。
フロウには、グランを殺す手段がないのだった。
レオバルドー作のアイルガラストやバザヒュームがあれば違ったかも知れない。アイルガラスト『我力喰い』は、突き立てた相手の我力を吸って破壊力に変えるカイスト殺しの剣だ。強力なカイストほどあっけなく死ぬ。バザヒュームは使用者の我力を破壊力に変換するコンバージョンソードの、レオバルドー自身が「どうしてこうなったのか分からない」と語っているほどの最高傑作だ。元々の我力強化による破壊力に加え、本来変換によってある程度ロスする筈の使用者の我力が七百二十九倍掛けという狂気の変換率で上乗せされてしまう。どちらも剣士にとっては憧れであり、同時に堕落の原因になるとして忌避される魔剣だった。結果的に魔術士などの護身用として使うのが無難と言われている。
まともなカイストの戦士なら、一対一の勝負に我力の込められた特殊な武器を使うことは「他人の力を借りた」と考え、プライドが許さない。しかし、『蜘蛛男』フロウなら躊躇しない。問題は、当時その二つの魔剣は手に入れることが不可能だったということだ。アイルガラストの当時の所有者は『究極の黒魔術師』ザム・ザドルであり、バザヒュームの方は行方不明で探知士・検証士にも見つけられなかった。その二つに及ばぬながら我力強化された武器を、フロウはグランに対して使用した。しかしグランの再生力には全く歯が立たなかった。血の糸と毒霧はグランを何千万回と刻み溶かした。グランが眠っている時に、溜めておいた一万リットルの毒液を注いだこともあった。しかしグランは無傷でまだ眠っていた。
たった二人の戦争となって二年後、グランは人のいなくなった荒野で胡坐をかいて、「永遠にでもつき合うぜ」とフロウに告げたという。
フロウは何も答えず、暫くの間、昏い瞳でグランを見つめていたという。
一旦姿を消したフロウが再びグランの前に現れたのは、正暦二百十二億三千六百二十七万八千八百五十二年第二百三十一日、エトナとジーの争いが始まってから、丁度百億年が経過した記念日だった。
フロウは諦めたのではなく、人として、カイストとして、最も下劣で恥知らずな手段を選んだのだった。この時の両者の心情はともかく、やり取り自体は台詞の一つも洩らさず記録されている。
朝になり、ラルハットの砂漠で目を覚ましたグランの前に、フロウと一人の少女が立っていた。
少女の首に、赤い糸が輪となって絡んでいた。輪から伸びた糸はフロウの右手人差し指に繋がっていた。『蜘蛛男』の血の糸。グランにも見えるように、意図的に太くしていたのだろう。
「その娘はどうした」
グランはそう、尋ねた。
「人質さ」
フロウはそう、答えた。
「彼女は……この戦いに、関係があるのかい。ジーの側の人間とか。生き残りがいたとか」
「全く関係ないな。名前すら知らんね」
後に検証士が調べたところによると、娘の名はテルザ・アモリ、当時十一才だった。長い長い戦災により衰退したラルハットで、細々と生きていたアモリ族という小部族。彼らは名乗る際に族名を添えるのが慣例だった。
六時間前に部族の大半を殺戮して、フロウが攫ってきた少女だった。
グランは少しの沈黙の後、改めて問うた。
「なら、なんでここにいる」
「だから人質さ。お前が俺の言うことを聞かなけりゃあ、この娘は死ぬ。コロリと首が転がってな。お前が治そうとしたら死体を抱えて逃げてやる。信じないなら、取り敢えず今、指でも腕でも切り落としてみせようか」
グランは自分自身の再生以外に、他人をも再生させる力を持っていた。彼の属性を既存の枠組みに当て嵌めると、Aクラスの治療士ということになる。だが、手の届く範囲に魂と死体がなければ無意味だ。
震えている少女の頬には涙の痕があった。グランの視線がそれを認め、すぐに言った。
「俺に何をさせたい」
「その風呂に入れ」
フロウは少し離れたところにある陶器の壺を指差した。人一人が充分全身を浸けられる大きさで、暗赤色の液体で満たされていた。
溶解作用を持つフロウの毒液だった。壺の表面にはフロウ自身の血が塗り固められ、容器が溶け崩れることを防いでいた。
「ただ入るだけじゃあダメだ。我力を全部切ってから入れ。再生せずに、そのまま溶けて死ね」
あまりにも馬鹿げたフロウの要求だった。カイスト同士の戦いに無関係な一般人を人質に取り、能力を封じて自殺しろというのだ。こんなことが通る筈がない。相手の守っている対象を攫って人質にすることは、カイストの常識としては許容範囲だ。守られているということは、関係者なのだから。しかし、全くの無関係な人質とは。これが通用するなら、人質を取るだけで世界を支配出来てしまうではないか。
こんな恥知らずで馬鹿げたことを敢えてやってみせるのが、『気まぐれフロウ』であった。
カイストなら、契約で守るべき対象でない限り、人質ごと殺すだろう。そうするのが最善と分かっているからだ。もし人質が通じてしまえば、そのカイストは永久に人質を取られ続けることになる。そんな馬鹿な選択をする筈がない。まともなカイストならば。
「フロウ、あんたはそれでいいのかい。こんな手を使って勝って、嬉しいのかい」
怒りや蔑みを表に出さぬまま、グランは尋ねた。
「ああ、嬉しいね。早くやれ」
答えたフロウは、昏い笑みを浮かべていたという。
グランが動き出すまでの時間は二秒未満だった。高速戦闘をしない彼の一般人並の思考速度で、何処まで考えを尽くしたのかは分からない。
グランは、ほぼ全てのカイストが絶対に選択しない行動を取った。壺に歩み寄り、レオバルドー作の服を脱ぎ捨てると、「よっこらせ」と縁を跨いで、あっさり首まで毒液に浸かったのだ。白い煙が昇った。
それからグランは片手を上げてみせた。肉を失い骨まで溶けかけても再生しない手を。グランは自らの存在意義である不死身性を封印し、溶けながら頭の天辺までを毒液に沈めた。
フロウは、黙ってそれを見守っていた。笑みは消え、怒っているように口を歪めて。
突然、フロウは少女を置いて歩き出した。血の首輪は自然に切れて少女から外れた。
自分が用意した壺を、フロウは蹴り倒したのだった。零れた毒液が地面を溶かし、ドロドロになったグランが転がり出てきた。
「糞馬鹿野郎。もういい」
フロウが告げた。
その時、グランはほぼ髑髏と首の骨だけになっていた。それを蹴り転がし、更には指先でこめかみをノックすると、漸く気づいたグランが眼球を再生させてフロウを見上げた。
「もういい」
もう一度、フロウは告げた。
「気が変わったのかい」
微かな声で、グランは尋ねた。
「俺の負けだ」
フロウは短く吐き捨てると、何もかもその場に放り出して、姿を消した。
エトナとジーの戦争は、最初のきっかけから百億年と三時間五十四分後に、ジーの勝利で終結した。
『不死者』グランはその後もジーの名を背負い、グラン・ジーと呼ばれるようになった。彼が万が一死ぬことがあったとしても、転生後ジーを名乗り続けることに誰も異を唱えたりはしないだろう。
『蜘蛛男』フロウが何を考えてあんな暴挙に出たのか、そして、何故それを翻して自ら敗北を告げたのか。憶測することは許されていない。少なくとも最大の悪名をフロウが背負ってくれて、双方のカイスト達は内心感謝しているかも知れない。
少し後になってフロウはこう宣言している。「俺の真似をしてグラン相手に人質を取ることは許さない」と。あの『気まぐれフロウ』が、今に至っても宣言を撤回せずにいる。
『エトナの轍を踏むなかれ』という言葉は有名な警句になっている。戦争が無意味に拡大しないように、互いの戦力増強を自粛する協定を『エトナ締め』と呼ぶようになった。協定を無視したカイストは手ひどいしっぺ返しを食らうことになる。かつてエトナとジーの戦いに参加した有力なカイスト達が、自分達の誇りを守るために違反者を厳しく罰するのだ。墜滅するまで追い詰められた違反者も多い。特にフロウが積極的に処罰行為に参加するのは脅威となっている。
何にせよ、これほど大規模で長期間に及ぶ、馬鹿馬鹿しい戦争は二度とあるまいと、古いカイスト達は多少のノスタルジーを込めて語るのだ。