あれからもう、何日が過ぎたのだろう。
そうか。ちょうど二週間になるのか。
外は、猛烈な吹雪が続いている。
いつまでも、止みそうにない勢いだ。
僕らは、洞窟の中で焚き火を囲み、ただ、蹲っていた。
僕の真向かいの、眼鏡をかけ理知的な顔をした男が、真田明弘。
右隣り、虚ろな目をふらふらと宙にさ迷わせているのが、木崎順一。
左隣りの村田清美は、化粧も入浴も出来ないけれど、相変わらず美しい。
そして、僕、志賀荘司。
落ち窪んだ目と、こけた頬は、僕らの栄養状態を示している。
誰も、喋らない。
黒い沈黙の中、焚き火の炎だけが揺れていた。
飛行機が墜ちた。
冬休みを利用して、ヨーロッパの国々を旅行する予定だった。計画を立てたのは、リーダー格である真田だ。
その飛行機が、墜ちた。
雲一つない快晴で、風も強くなかった筈だ。エンジントラブルか何かだったのだろうが、今となってはどうでも良いことだ。
雪山の斜面に激突。凄い衝撃で、機体はバラバラになってしまった。あっという間の出来事だった。
どういった偶然か、僕ら四人だけが無事だった。座席の位置が良かったのかも知れない。他の人は皆死んでいた。
グチャグチャに変形した死体を見て、清美は吐いてしまった。
木崎は口を馬鹿みたいに開けたまま、呆然と突っ立っていた。
僕も、こんな状況が信じられなかった。実感がなく、夢を見ているような気がしていた。
だが真田は冷静だった。彼に叱咤され、我に返った僕らは食料と毛布を漁った。近くに小さな洞窟を見つけたので、そこに運び込む。
無線機は滅茶苦茶に壊れていた。それに僕らは使い方を知らなかった。いや、壊れてさえいなければ、なんとかなったのかも知れない。でもそんなことを考えても仕方がない。
ここは何処なのだろうか。アルプスかヒマラヤか、多分その辺りだ。かなり奥深いところで、周囲を見まわしても真っ白な山々しか見えない。雪、雪、雪、それだけだ。
近くの平坦な地面には、疎らに木が生えているところがあった。なんとか、薪は確保出来た。
そこへ雪崩だ。
間一髪、僕らは巻き込まれずに済んだが、雪崩は飛行機の破片と一緒に、中の死体や荷物を全て持っていってしまった。それらはこの先の谷底に落ちた。険しく深い谷で、到底下りられるものではない。
僕らは僅かな食料と共に、完全に取り残された。
救助を期待して、地面に石を並べSOSを作った。僕らは一日中空を眺めて過ごした。
だがひどい吹雪になった。僕らは洞窟の中に篭らざるを得なかった。
そして二週間が過ぎた。
食料は既に尽きていた。
「食料を探しに行く」
思い詰めたような顔をして、真田が言った。
「無駄だよ。歩ける範囲は探したけど、何もなかったじゃないか。それにこの吹雪だ。真っ白な視界をさ迷っても、凍死するだけだ」
僕はそう言って真田をなだめた。
横で木崎が力なく笑った。
「どうしたって死ぬんだ。もう終わりだよ。運がなかったんだ」
木崎の投げ遣りな言葉に清美が怒った。
「そんなこと言わないでよ。せっかく私達は助かったのよ。きっと救助の人達が来てくれるわ。希望を捨てないで待つのよ」
「僕のせいだ」
突然真田が叫んだ。皆ギョッとして彼を見る。
真田の顔は、自責と苦悩に歪んでいた。
「僕が皆を誘わなかったら、この飛行機に乗らなかったら、こんな……」
「あなたのせいじゃないわ。誰もあなたを責めちゃいないわよ」
清美が言った。彼女は、心底、そう思って、いるのだろう。
「そうだよ。こんなことを予測出来る筈がない。人生、何が起こるか分からないんだから」
僕も真田を慰めた。
木崎は虚無の瞳で外の吹雪を見つめていた。
「助かったら、好きなものを腹一杯食ってやる。胃袋が破れるまで、食って食って食いまくってやる」
僕が言うと、皆も目を輝かせてそれに応じた。
「そうね、私はお寿司がいいわ」
「特大のステーキ」
「焼き肉」
カレーライス。牛丼、カツ丼、天丼。親子丼うな重うどんそばスパゲッティラーメン素麺チャーシューメンてんぷら定食オムレツグラタンピラフハンバーグポタージュスープチョコレートパフェクリームソーダ……。
食べられさえすれば、何でもいい。
次第に、皆の口数が少なくなっていった。
重苦しい沈黙だけが残った。
空腹と絶望が、薄暗い洞窟の中に粘っこく澱んでいた。
更に三日が過ぎた。
僕らの飢餓は極限状態にあった。
互いの顔に鬼相が浮かんでいくのを、僕らは黙って見守っていた。
吹雪はまだ続いている。
頭が半分朦朧としている。
あるのは飢えだけだ。
僕は聞いたことがある。飢えというのはある限界を超えると、逆に空腹を感じなくなるという。
その段階まで進めば、僕らは、安らかに、死を迎えることが出来るだろう。
だが今は、食べ物が欲しい。
何でもいいのだ。食べられさえすれば。
何でも。
なん……で……も……。
「皆、聞いてくれ」
真田が、口を開いた。その声の調子にただならぬものを感じ、僕らは一斉に真田を見た。
彼の目には、悲壮な決意の光があった。
「このままだと、皆、飢え死にしてしまう。といって、食料もないし、当分救助の見込みもない。だから……」
真田は右手にナイフを握っていた。漁った荷物の中に見つけた、登山用のナイフ。
「何をするんだ、真田。馬鹿な真似はよせ」
静止の声も聞かずに、真田は自分の左腕にナイフを突き立てた。
血が溢れる。真田は苦痛に顔を歪めはしたが、悲鳴は上げなかった。
「真田君」
真田は刺したナイフをぐりぐりと抉った。
彼は、自分の左腕を、切断しようとしているのだ。
皆の食料にするために。
「なんてことを……」
「僕のせいだからだ」
真田は唸るように言った。
「皆を誘った僕に、責任があるんだ。だから、君達を死なせるわけにはいかないんだ」
「真田……」
僕らは目を見開き、歯を食い縛って、彼の行為を見つめていた。
なんという男だ、真田。僕は知らず、涙を流していた。僕には、同じ状況で彼と同じことが出来るかどうか、自信がない。いや、絶対に出来ないと思う。
完全に負けたと思った。人間として。
僕の、真田を見る目が変わった。僕にとって真田は、偉大で、神のごとく絶対的な存在と化していた。
真田は、しぶとい骨をナイフでゴリゴリと削って切断した。
腕が落ちた。
清美が黙って真田の上腕を紐で縛り、止血した。
「真田……」
僕は言った。
「お前を、尊敬する」
僕の言葉に、真田は青い顔に脂汗を浮かべながらも、微笑んで見せた。
「こんな時だから言える」
真田は清美に向かって言った。
「村田さん。僕は君のことがずっと好きだったんだ」
清美は目に涙を浮かべ、ゆっくりと頷いた。
僕も清美が好きだった。おそらく木崎もそうだったと思う。ただ、言い出せなかっただけだ。
僕は、全く悔しさを感じなかった。
真田、お前なら清美に相応しい。心の底からそう思うことが出来た。
腕を焚き火で焼いた。
皆で食べた。
涙を流しながら、食べた。
そして二日経った。
再び僕らは飢餓の中にいた。
やはりあれだけの肉じゃ、何日も持たない。
いや、真田には感謝している。彼は凄い男だ。
でも、あれだけの肉じゃ、何日も持たない。
吹雪はまだ続いている。
沈黙の中で、僕らの考えていること。
それは、真田のこと。
真田への期待。
また、あれをやってくれないだろうか。
勿論、真田には感謝している。
またやって欲しいなんて、おこがましいことは考えたくもない。
とんでもないことだ。
でも、腹が減っているという事実はここに存在する。
腹が減って死にそうだ。
木崎も、清美も、そのギラギラした目の奥で、僕と同じことを考えている筈だ。
そうだろ。違うなんて言わせないぞ。
真田は、真剣な暗い眼差しを、自分の内部に向けていた。
真田。
お願いだ。
僕らは腹が減って死にそうなんだ。
さあ、ナイフを出してくれ。
その強い意志力で、僕らを救ってくれ。
頼む。
元々、今回の旅行を計画したお前に責任があるんじゃないか。
いや、そんなことを考えてはいけない。なんて図々しいんだ僕という男は。最低の人間だ。天地がひっくり返ってもそんなことは考えてはならない。この偉大で神聖な真田を一瞬でも責めようとした僕は、どうしようもない人間だ。
でも、実際に腹は減っている。
腹が減って死にそうなんだ。
本当に、死にそうなんだ。
だから、真田。
さ、な、だ。
いや、いけない。真田も苦しんでいるんだ。僕らはまるで餓鬼のようじゃないか。友人の肉を欲しがるよりは、このまま飢え死にした方がましだ。そうだろ、人間として。
でも、僕らがこのまま死んだら、真田のせっかくの善意が無駄になってしまうのではないか。
だから真田。
頼むよ。
とうとう、真田が意を決したように動いた。あのナイフを取り出して。
そうだよ真田。そうこなくっちゃ。
彼はナイフの刃を、自分の右の太股に当てた。
「さ、真田……。すまない……」
僕らは涙を流していた。
涙と同時に、口からは涎が滴り落ちていた。
とめどなく、とめどなく、滴り落ちてくるのだ。
更に、二日が、過ぎ、た。
僕らは、再び、飢餓地獄の、真っ只中に、いた。
片手、片足、と、なった、真田。
僕ら、の、考え、ている、こと、は、同、じこと。
真田。
真田。
さな、だ。
さ、なだ。
さ、な、だ。
さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ、さ、な、だ……
さ。
な。
だ。
皆の視線が真田に集中していた。
真田が黙ってナイフを取り出した。彼は、悲しい目をしていた。
自分の左の太股に当てた。
その時、幽鬼のような清美の声が、狭い洞窟内に響いた。
「足だけじゃ、足りないのよ」
よく言った、清美。僕は先陣を切った清美に感謝した。
木崎が狂ったような笑みを浮かべた。
「出し惜しみすんなよ。全部出せ。全部。全部。全部。全部」
そう。その通りだ。木崎、お前も話が分かるじゃないか。
ナイフを持った真田の手を、僕は掴んだ。
「大体お前が悪いんだ。お前がヨーロッパ旅行なんか計画するから。お前には責任があるんだ」
僕の正当な意見に、清美も木崎も同感の表情を浮かべた。
皆が真田に飛びかかった。何処にこんな体力が残っていたのかと思えるほど、体が力強く動いた。
僕がナイフで真田の腹を裂いた。
清美が、木崎が、真田の内臓を引きずり出す。
何でもいい。食えればいい。
生でもいい。
真田は悲鳴を上げていたのだろうか。夢中になっていた僕らは覚えていない。
飛行機が飛んでいる。
捜索の飛行機だろうか。
僕は歓喜に踊り狂い、手を振り続けた。
あれから一ヶ月が経っていた。
吹雪も止み、僕はSOSの石を再び掘り出していた。
淡い希望を持って空を見上げる毎日。
助かるのだ。
僕は、助かるのだ。
洞窟の中の真田と木崎の骨、まだ肉の残っている清美の死体は、隠しておかなければならないだろう。
とにかく僕は助かったのだ。
僕は……。
僕は、今もここにいる。
あれから一週間になる。
飛行機は僕に気づかなかったようだ。救助は来なかった。
また強い吹雪が外を覆っていた。
一体、僕は助かるのだろうか。
このまま死んでいくのなら、僕らのやったことに、何の意味があるのだろう。
ああ、真田。
お前があんなことさえしなかったら、僕らは四人仲良く、ゆっくりと衰弱して死んでいけたのだろう。
こんな地獄を見ずに。
真田、お前の善意は、僕の人生に最悪の終わり方を与えただけなのか。
助かりたい。
問題は、残り少ない清美の死体をどう食い繋いでいくかだ。
完全に骨だけになった真田と木崎。
内臓を食い尽くした清美の、首筋に突き刺さったままのナイフ。
彼らは、元の場所に座っている。
揺らめく焚き火の炎。僕は独り蹲って、動かぬ親友達を見つめていた。
ずっと見つめていた。