一
新宿に最近出来たデパートには面白いエスカレーターがある。各階を行き来するエスカレーターとは別に、一階と最上階の十三階を直接繋ぐものがあるのだ。吹き抜けになったビルの中央部を囲むように、そのエスカレーターは緩やかな螺旋を描いている。全長百八十メートル、乗ってから到着まで約二分。運ばれる間、各フロアの様子を眺めたり、吹き抜けの景色を楽しんだりしてちょっとしたアトラクション気分に浸ることが出来るのだ。そのため不必要に往復して楽しむ客も多かった。
十三階は常に何らかのイベント会場として使用されており、日曜のその日は正午より若手シンガー・ソングライターの無料ミニライブが予定されていた。開演が近づきファンが集まり始めていたが、ひどい混雑でもない午前十一時三十分。事件が起きたその時、下り側の直通エスカレーターに乗っていたのは百三十八人だった。
背の曲がった老婆が買い物カートを押したままエスカレーターに乗り込むという無茶をしでかし、前のめりに転んだのだ。カートの持ち手に顔面をぶつけて鼻が潰れた。「ぐひっ」と老婆が呻いた。そのまま倒れて段の角に当たり顎が砕けた。滑り落ちたカートが、振り返りかけた五段前の客に激突した。
「うおっ」
その若い男性客は膝を曲げて倒れる。無理な体勢で必死についた右手首がグキッと折れた。起き上がろうとしたところに老婆が転げ落ちてきた。老婆の頭が男性客の頭に激突して二人の首が曲がった。老婆の頭が後ろ向きに折れ曲がり後頭部が背中についた。男性客の頭は前に折れて額が自分の胸につく。二人の肉塊がカートに乗り、その下の女子高生に追突した。
「ぎょぶっ」
ヘッドホンを着けていた彼女は背後からの脅威に気づかず直撃を受けた。背骨が砕け、エビ反り状態で肉塊と合体して雪崩れ込む。すぐ下の段にいた中年夫婦が振り返って悲鳴を上げる。その大きく開いた二つの口に、老婆の右腕と男性客の左足がそれぞれ突っ込まれた。首の後ろから貫通して血みどろの手と靴が現れる。女子高生の胴体は背中側に百八十度折れていた。中年夫婦の痙攣した両腕が互いの頬を殴りつけ、双方の首がちぎれた。噴き出した血が合体肉塊を染めていく。
エスカレーターに乗った他の客達も異常事態に気づき始めていた。しかし百八十メートルの直通エスカレーターのため逃げ道がない。一階到着間近の客数人が急いで降りようとして、何事かと上を振り仰いでいた先頭の客にぶつかり絡み合い倒れる。一人の両手の指が段の隙間に挟まりグシャリと潰された。
「うあああっ」
慌てて引き抜こうとするが左手の指は親指以外の四本がちぎれ、右手は挟まったまま抜けない。安全機構が作動してエスカレーターが急停止した。乗っていた百数十名がつんのめる。そこへ後方から肉塊が襲いかかった。
犠牲者の絡み合った塊は重量三百キロを超えていた。底面で潰れているカートの車輪が段を滑り続け、新たな犠牲者をへばりつかせていく。彼らに逃げる場所はなかった。何人かは撥ね飛ばされて安全柵を越え、数十メートルの高さから落下した。一人は硬い床に当たって首を折り、一人は飾り物の木に胸を貫かれ、真っ逆さまに落ちた一人は一階を歩いていた別の客に激突した。頭と頭がぶつかり合い陥没し、二つで一つ分ほどの大きさになっていた。
「ぎゃあああ」
「助けてギョベッ」
「イダダダダ」
エスカレーターを滑る肉塊は止まるどころか更に勢いを増した。人々が次々と潰され肉塊に加わっていく。悲鳴と砕ける骨の音。ちぎれた腕や首が吹き抜けの空間を落ちていく。一階の終点は、指を巻き込まれた客と慌てて逃げようとした客でぎゅうぎゅうに詰まってしまい誰も抜け出せなくなっていた。安全柵を自ら乗り越えて近くのフロアに飛び降りた者は着地に失敗して首を折った。
唖然とする他の客達に見守られ、肉塊は一階に到着した。百二十七名を圧縮したそれは幅一メートル、長さ二十四メートルに達し、エスカレーターの形に沿って緩い弧状に曲がっていた。血に染まりねじれた胴体。複雑に絡み合った手足。パズルの部品と化した人々の顔は、まだ生きており苦鳴を洩らすものも混じっていた。
巨大な肉のバウムクーヘンもどきはほぐれることなくそのまま床を滑り、玄関の自動ドアをぶち破って屋外へ飛び出した。デパートに入ろうとした客数人を新たに巻き込んで車道に躍り込んだところで大型トラックに轢き潰される。トラックは派手に横転して近くを歩いていた通行人二十数名を肉の絨毯に変えた。更に積荷のガラス板数十枚が割れ砕けながら周囲に飛び散り、七十四人の体をズタズタに切り裂いた。続いて玉突き衝突で六十二人が死亡、歩道に乗り上げた車に轢かれ十六人が死亡、地獄絵図から逃げようと転んで頭を打ったり首を折ったりして七人が死亡、騒ぎのどさくさに宝石を盗もうとした男が店員と揉み合って陳列棚に頭を突っ込み首が切れて死亡した。
その夜、デパートの経営者は記者会見の席で、くしゃみした拍子にマイクが目から脳まで刺さって死亡した。
二
幸夫は、自分に起こったことが信じられなかった。
自分の指。右手の人差し指。それが第二関節部分で逆向きに曲がっている。本来曲がるべきでない方向に、ほぼ直角になってしまっている。
テレビのチャンネルを変えようとして、リモコンのボタンを押しただけだ。掴まずに、置かれたままのリモコンに指を伸ばして押した。それでいきなりグギッと指が鳴って、こんなことになってしまった。勢い余って押してしまったとか、そんなに力を込めた訳じゃない。それなのに何故、指が折れるのだろう。
痛みがジワジワと強くなってくるが、我慢出来ないほどでもない。医者に行くのも面倒だし、このまま様子を見ていてもいいかも知れない。こんなにあっさり折れたのだから、いつの間にかあっさり治っているということもあるかも知れない。脱臼みたいなもんじゃないか。折れた部分を持って自分で整復するのは流石にためらわれたけれど。
幸夫は、もう十年近く、家から出ていない。
折れた指を意識しないように、目をテレビに向けた。
変えた先のチャンネルも同じニュースをやっていた。昨日起きた、新宿のデパートの事故。エスカレーターの事故らしいが、二百人以上の死者が出てまだ正確な数も分かっていないという。将棋倒しに倒れたとか爆発とか轢かれたとかの表現を使いながら、ニュースキャスターは何やら物凄い死に方だったことをほのめかしていた。遺体同士がピッタリくっついていたとか。信じられないような状況で、警察は今も調査中だとか。
信じられないとはどの程度信じられないのだろうか。幸夫の指に起こったことくらいに信じられないのか。幸夫にとってはこちらの方が重要だ。
家の外で何が起きていようが、幸夫の世界はこの部屋だけだ。親の顔を見ることも滅多にないし、ここ数年は食事に「一度話し合いましょう」とか「諦めないで出てきて」とかのメモがついていることもなくなった。トイレは部屋の前にあり、親が寝静まった夜中にシャワーを浴びる。世間ではインターネットが流行っているらしいが、パソコンを持っていない幸夫には関係ない。ゲーム機も壊れてしまい、新しいものを買いに出かける気力もなかった。
この部屋で、寝ているかテレビを観ているかだけが、幸夫の生活だ。外の世界がどうなろうと、知ったことではなかった。
ただ、人差し指がいつの間にか治ってくれたらいいなあと思いながら、幸夫は昼寝のためベッドに横になった。リモコンに触るのも嫌だったので、テレビを点けたままにした。
三
ワシントン・ダレス国際空港を出発した大型旅客機はパリへ向けて大西洋上にあった。既に高度は一万メートルへ達し、時速千キロ近いスピードで安定飛行を続けていた。
乗客は三百四十二名。アイマスクを着けて眠っている者もいるが、まだ日は高く、起きている者も多い。キャビン・アテンダントは優雅に往復し、客の要望に応えて飲み物を提供したりしている。
コックピットでは機長と副操縦士がお喋りしていた。パリに着いて非番になったらどのように過ごすかという話。バーで飲むという機長に、何処か良い風俗店はないかと副操縦士が尋ねる。
「おいおい、お前は新婚三ヶ月じゃなかったか」
機長が苦笑して副操縦士の肩を叩く。
「おっと」
副操縦士がちょっと体勢を崩して操縦桿に触れてしまった。自動操縦が解除され、機体がゆっくり傾いていく。
「おいおい、触れちまったぞ」
機長が慌てて自席の操縦桿を掴みコントロールしようとするが、バキュッという音がした。
操縦桿が根元から折れたのだ。
機長は暫く呆然として、自分の手にあるものを見つめていた。
「信じられない。整備不良どころか欠陥品ですね」
副操縦士が言って、自分側の操縦桿を握る。またパギュリと鳴って、根元から折れてしまった。
「な、何だこりゃ……」
「まずは自動操縦に戻すぞ」
機長がパネルに手を伸ばす。押したボタンがパキッと割れて奥に引っ込んでしまった。機体の姿勢は戻らない。
「どうなってる」
焦った機長がボタンの穴に強引に指を突っ込んだ。奥のスイッチを探って指をひねるうち、突然機長の全身が硬直する。髪の毛が逆立ち、体が白煙を上げた。内部の電気回路に触れて感電してしまったらしい。パネルが火を噴き、機体が震動し始めた。
「機長っ」
副操縦士が叫ぶ。機長の眼窩から煮えた眼球が飛び出した。制服が燃えていく。パネルから指を離させようとしたのか、副操縦士は機長にタックルした。機長の右腕がバグリとちぎれ、断面から湯気を発する。倒された機長の頭が床にぶつかり首が折れた。副操縦士も一緒に倒れたが、その顔の下に二個の外れた操縦桿が待ち構えていた。二個共折れた軸部が上になって、見事に副操縦士の両目に突き刺さって脳を破壊し即死させた。
揺れる機体に乗客達も騒ぎ出した。「落ち着いて下さい」とキャビン・アテンダントが繰り返すが、彼女達の顔にも不安が滲む。と、機体が激しく揺れた拍子にキャビン・アテンダントが転んだ。通路の床をゴロゴロと前転していき、端に辿り着いた時には首も手足も背骨も折れて一個の肉団子になっていた。
乗客達が悲鳴を上げる。「飛行機が落ちるっ」と慌てて立ち上がった左窓際席の男が、腕を窓にぶつけてしまう。
「痛っ」
男は折れてしまった手首を呆然と見る。それから窓の方も。三重構造の窓に亀裂が入っていた。それが、ビシ、ペキ、と音を立てて放射状に広がっていく。
ボギャンと窓がぶち割れて破片が外にすっ飛んでいった。高度一万メートルでの気圧差が強風を生み、乗客達の服と髪を揺らす。
「うおおっ」
手首の折れた男が窓に吸い寄せられた。肥満体が狭い窓にめり込み、ブチゴキと肉がひしゃげ骨が砕けていく。男は空へ、放り出された。
砕けた手足を震わせ宙を漂う男をすぐに受け止めたのは、左主翼のジェットエンジンだった。男はエンジン手前で高速回転するターボファンに巻き込まれ、瞬時にこま切れ肉と化して飛び散った。
割れた窓からは次々に後続の乗客が吸い出されていた。それを左主翼の二つのエンジンが受け止めて見事に粉砕していく。悲鳴など上げる暇もなく、ポンポンポンポンと乗客が射出され、バンバンバンバンと粉々になる。エンジンに吸い込まれなかった奇特な乗客は主翼にぶち当たって胴を両断された。いつの間にか右側の窓も破れ、そちらから飛び出した乗客は右主翼のエンジンに吸い込まれ同じ末路を辿った。左右の窓から人の列が流れ出し、エンジンのターボファンに吸われて赤い花を散らせる。美しい光景だったが見ている者はいなかった。旅客機の通った後には赤い雨が降った。
全ての乗客とキャビン・アテンダントが吸い出され細切れにされ、墜落した旅客機が海面に激突した時点で既に、生者は一人もいなかった。
四
リモコンに触れないため二十四時間同じチャンネルを流し続けているテレビは、ワシントン空港を出発した大型旅客機の墜落事故を報道していた。生存者は絶望的らしいが、それでも救助に行った船が沈没したとか、二隻の救助船同士が衝突して沈んだとか、空から撮影していた報道ヘリが突然故障して落ちてきて、回転するローターが船の甲板に並んでいた二十六人の体を粉砕したとか、大変なことになっているようだ。
そういえば二日前はアメリカ大統領が死んだのだった。暗殺でも病死でもない。事故死だ。その映像は何度も放映された。
大勢の支持者へ演説をぶつためにステージに上がり、手を振りながら壇へと歩く途中で大統領は転んだ。支持者達が笑い声を上げ、すぐにそれは悲鳴に変わった。
転んだ拍子に、大統領の右手人差し指が自分の右目に、中指が左目に突き刺さっていた。薬指は鼻の左の穴に深々と潜り込み、脳を掻き出している。左手首は開いた口に完全に入ってしまい、更には首の後ろから血みどろの指が突き出している。反り返った頭に、これまた異様な角度にねじ曲がった両足が蹴りを入れ、靴先が後頭部にめり込んでいた。
元気一杯だった大統領は、一瞬でエビ反りに丸まった肉塊へと変化していた。
支持者達のどよめき。慌てて駆け寄った数人のシークレットサービスがまとめてすっ転び、大統領の死体に顔面を激突させてグネリと首を折った。
支持者達は恐慌状態に陥って我先に逃げまどい、押し合って五百人以上が圧死したという。
「最近は妙な事件が多いな」
幸夫はなんとなく呟いてみた。聞いている者は誰もいないのだけれど。
日本の総理大臣もそろそろ死なないのだろうか。そんな馬鹿なことを考えながら、幸夫はぼんやりとテレビを観ている。
折れた右手人差し指は、相変わらず折れたままだ。ただ、何かを握り締めたりしない限り痛むことはないので、幸夫はあまり気にしないようにしている。
足音が近づき、ドアが二度、ノックされる。
幸夫は返事をしない。返事をする必要もない。コトン、と、廊下にものを置く気配があり、足音は去っていった。
用心して一分ほど待ち、幸夫はドアを開けた。もう誰もいない。盆に載った昼食が置いてある。
今日は素麺だった。延びてしまわないうちに早く食べてしまわないと。幸夫は盆を室内に引き込み、ドアを閉めた。
箸を握るとやはり人差し指が痛む。我慢しながら食べていると、テレビの番組では怪しげな学者が得意げに喋っていた。
「ですから私はこの現象を、『肉体におけるマーフィーの法則』と名づけました。即ち、死ぬ可能性があれば死ぬ、ということです」
「で、そうだとしたら、もう人類は絶滅してしまうのではないですか」
女子アナが尋ねる。どうせ台本が出来てるんだろうなあと思いながら幸夫は観ている。
「死ぬ時期や条件は場合によりけりですが、私の見たところ、単純な心臓発作や転落死などではなく、敢えて可能性の少ない方法で、最悪の死に方を選んでいるように思いますね。例えば、これを見て下さい」
学者が立ち上がり、テーブルの上の箱から黄色いものを掴み出した。カメラがズームすると、それは一本分のバナナの皮だった。
「ほいっ」
学者は妙に嬉しそうにバナナの皮を放り投げた。番組名がペイントされた床にボテッと広がって落ちる。
「もうこれだけで人が死にます」
学者は自信満々に宣言した。
「このスタジオで、ですか」
隣の女子アナは興味津々な顔で尋ねてみせる。
「ええ、死にますね。それがここにいる皆さんのうちどなたになるのかは分かりませんが。もしかしたらあなたかも知れませんし、私になるかも知れません。いやひょっとすると全員かも知れません」
テーブルに着く他のタレントや評論家を見回して学者は言う。しかしバナナの皮は彼らから遠過ぎるし、誰もわざわざ近づいたりしないので何も起こりようがない。こんな時お笑い芸人がいれば受けを狙って滑り込んでみせるのだろうけれど。演出の失敗だなと幸夫は思う。
「誰も死にませんね」
バーコード頭の評論家が苦笑している。
「いやいや、こうしている間にも見えないところで着々と、死の準備が整えられているのです。もう少し待っていれば必ず……」
学者はまだ自信ありげな態度を崩さない。しかし何も起きないまま一分近くが経ってしまう。
「ええ……と、先生の理論は少し見直しが必要になるかも知れませんね」
女子アナが曖昧な笑顔を見せた。
「そんな筈はありませんっ。こういう馬鹿馬鹿しいシチュエーションであればあるほど、死亡率は高くなる筈で……」
学者が苛立った様子で声を大きくし、ドンとテーブルを叩いた。その一秒後、上から鉄の塊が落ちてきて学者の脳天にぶち当たった。飛び散る血とガラス片。頭上にあった照明が落下したのだ。割れた照明器具がかぶさって学者の顔は隠れていたが、その白い服に血がダラダラと垂れてくる。
「きゃああああっ」
隣の女子アナが悲鳴を上げてその場から逃げ出した。その先にバナナの皮が待っていた。ハイヒールを履いた右足が皮に乗り、転ぶのでなくそのままスケートみたいに滑り出す。
「きゃああああ止めて止めてええっ」
女子アナがこちらに迫ってきた。その慌て顔がカメラに激突してグチャリと潰れた。綺麗な顔が完全な平面と化し、テレビ画面がそれだけで埋まる。「CMだっCMにしろ」と叫ぶスタッフの怒号と大勢の悲鳴、それと大きなクラッシュ音が続いた。画面を覆う潰れ顔が、ピクッ、ビクリ、と痙攣している。
やがてベヂャリと血の糸を引いて、女子アナの顔が離れていった。カメラのガラスに、血走った二個の眼球がへばりついたまま残っていた。
血で汚れた画面が改めてスタジオ内を映す。出演者達が倒れた鉄柱の下敷きになって死んでいた。一人だけ災難を免れたバーコード頭の評論家が、気が狂ったみたいに笑っていた。
「わははは。わはははは。何だこりゃ。何だこりゃ。わははははは」
そこにセットの壁が背後から倒れかかり、評論家の首がクニャリと曲がったところでCMとなった。
「はあ」
幸夫は溜め息をついた。食べ終わった盆を廊下に出し、ベッドに横たわる。世界中で起きている異常現象より、自分の折れた指のことが気になっていた。
五
インド洋を航海していた豪華客船が大波に叩かれて数十メートルもジャンプした。船室にいた千人を超える乗客は窓や甲板をぶち破って船外へ飛び出し、放物線を描いて落下した先は太いマストの先端だった。次々と腹を貫かれて串刺しとなり、後から来た客に押されてどんどんマストをずり落ちていく。長大な串団子が出来上がった頃にはマスト下部はズタズタになった肉塊の堆積だった。マストに刺さらなかった乗客は海に落ち、たまたま海面から顔を出していた凶暴魚・ダツ達の細長く尖った顎に胸腹を貫かれ死亡した。
打ち上げられたスペースシャトルが大気圏脱出前に崩壊し、宇宙飛行士全員が死亡した。単純な爆発でなく、外装や部品がポロポロポロポロと剥がれ落ちていき、最終的には宙で手足をバタつかせる宇宙服姿が地上から丸見えになっていた。彼らは発射台の鉄柱に突き刺さって即死するまで無駄に足掻き続けた。
太平洋の海中でアメリカと中国の潜水艦同士が正面衝突事故を起こしたらしい。お互い船首だけでなく船尾まで完全に潰れてしまい、全長が十三メートルまで縮んでしまったとか。中の乗員は全員即死だったろう。
新幹線が脱線して空を飛んだ。十六両に前後端の運転室を加えた十八個の連結が切れ、百数十メートル離れた場所に並ぶビル十八棟にそれぞれが突き刺さった。全てのビルが倒壊して五千人以上が死亡した。
関東で起こった地震で東京タワーが土台から抜けて歩き出した。前のめりに倒れてビル二棟を潰すまで、コンクリート塊をつけた鉄柱が十八歩分スキップするように歩いて百二十六人の観光客を踏み殺した。ヨーロッパの地震ではピサの斜塔が倒れては転がってまた起き上がるという超絶技を二十八回繰り返し、観光客と地元住民四千人以上を殺した。最後は天辺を地面に突き刺して、逆さに直立して安定した。
アメリカ南部をハリケーンが襲い、数千もの家屋を吹き飛ばしたのだが、災害が通り過ぎた後に巨大な肉のボールが残っていた。大きさは様々で、巨大なものは直径三十メートルもあった。吹き飛ばされた人が転がるうちに他の人とぶつかって絡み合い、巨大な塊を作ってしまったらしい。どうして他の物体と一緒くたにならず人間の死体だけでくっついたのか、誰にも説明出来なかった。
ドバイの超高層ホテルで起きた火災は上階へと這い上り、追い詰められた客達は窓から飛び降りることとなった。ある客は三百メートルの高さから落ちながら、地上に敷き詰められた分厚いクッションで奇跡的に転落死を免れたが、バウンドして飛んだ拍子に近くの道路標識に頭をぶつけて死んだ。別の生存者は駆けつけた救急車に轢き殺された。
ドイツで五万三千人の死者を出した大事故のきっかけは、五才の男児が落としたゴムボールだった。ベンツがそれを轢いてスリップし、歩道の十数人を撥ね飛ばした後、スピンしながら前のタンクローリーに追突した。大爆発を起こしたタンクローリーは真上に四十メートルも飛び上がり、炎と赤熱した鉄片を撒き散らす。その破片に頭部を輪切りにされたり首を飛ばされたりして数百人が死んだ。更には一帯の車に炎が移ってどんどん爆発していく。水平に吹っ飛んで隣の道路に炎を持ち込む車もあれば、斜め上に飛んでマンションの五、六階に突っ込む車もあった。炎とクラッシュと建物の倒壊、それとガス爆発がドミノ倒しのように次々と連鎖していき、一時間で街一つが滅んだ。
そこまで派手でなくても世界中で交通事故は激増した。ちょっとしたことでハンドルを取られ、スリップし、エンジンが故障し、ガソリンが洩れて爆発する。急ブレーキをかければシートベルトに首を絞められ、或いはベルトをすっぽ抜けてフロントガラスを突き破り前方の壁や車に頭をぶつけ即死する。市営バスが停留所に停まったところ、つんのめった二十八人の乗客と運転手が全員フロントガラスを破って前の道路に積み重なった。勝手に動き出したバスに潰され彼らは肉の絨毯と化した。
クレーンが倒れて人が潰されるのは日常茶飯事だ。何処かでガラスが割れれば必ず一人や二人、喉が切れて死んでいる。ベランダで洗濯物を干していれば高確率で転落死する。残りの人の一部は何か物を落とし、それは必ず通行人の頭に当たって陥没させた。また、風で飛ばされた看板が高い階のベランダにまで飛び込んで首にめり込むこともあった。
格闘技の試合などお話にならない。選手も死ぬし、たまに巻き込まれてレフェリーも死ぬ。投げられた選手が客席に飛び込んで数人を殺したりもした。ボクシングではしばしばクロスカウンターで両選手共首の骨を折ったり頭が破裂したりした。野球もサッカーもボールやバットや蹴りが当たって死にまくり、たまには客席から飛んできた缶ジュースが当たって死に、チームに生きている選手がいなくなってしまった。
屋内にいても危険は減らない。外から鉄塊や木材が飛び込んでくる。たまには人間の生首まで飛んでくる。棚が倒れかかる。電灯が落ちてくる。テレビも電子レンジも冷蔵庫も洗濯機も爆発する。寝ていたら床が抜けてベッドごと下の階に落下し、丁度そこに飾られていた観葉樹に胴を貫かれて死んだりもした。
激増する事故死とは逆に、殺人事件や自殺は激減した。人を殺そうと刃物を握ったら転んで自分に刺さったり、首を吊ろうとロープを梁に掛けたら天井が落ちてきて潰されたりと、行動が完結する前に事故死してしまうのだ。
そこら中に死体が溢れ返るため、警察はいちいち鑑識を呼ばず検死もしなくなった。病院は患者が来なくなりガランとしていた。病院に来るような怪我や病気をする前に死んでしまうためだ。忙しく行き交っていた救急車も事故で潰れたり爆発したりして、サイレンを聞くことは殆どなくなっている。
飛行機やヘリは墜落する。船は沈没する。列車は脱線する。世界中の交通網は麻痺状態に陥った。作業従事者は不慮の事故で死にまくるものの、原発のメルトダウンや核兵器の暴発などは何故か起きなかった。一度に大量に死滅してしまうような事故ではなく、比較的小規模で原始的で凄惨な死に方ばかりが世界に満ち満ちていった。
六
幸夫は目を覚ます。テレビはザーザーという雑音を垂れ流している。
まだ夜だろうか。いや、もう窓から明るい光が差し込んでいる。
起き上がってテレビを見る。砂嵐状態の画面。時計を見るともう午前十時を過ぎているのに、番組が放映されていない。
他のチャンネルに変えてみるか。幸夫は久しぶりにリモコンに手を伸ばす。逆向きに折れた右手人差し指。こうなってから何週間経っただろう。カレンダーもないし分からない。
指を折らないように用心して、幸夫は左の親指でボタンを押した。
別のチャンネルになっても砂嵐のままだった。幸夫は更にチャンネルを変える。やはり砂嵐だ。アンテナが壊れてしまったのだろうか。
と、やっているチャンネルがあった。ニュース番組かバラエティか。スタジオが映っているのだが動きがない。画面の隅に、人が、倒れているようだ。幸夫はノロノロとベッドから這い出し、テレビに顔を近づけた。
スーツの男だった。アナウンサーか、それとも芸能人だろうか。顔が見えないため分からない。
男は仰向けに倒れていたが、頭が自分の背中の下敷きになっていた。首が完全に折れ曲がってしまっている。
スタジオは散らかっていた。画面の反対の隅には血溜まりらしきものが見える。誰も座っていない椅子が並び、その下に壊れたテレビカメラとちぎれた手首が見えた。
スタッフも皆逃げたか、死んでしまったのだろう。
どうやら大変なことになっているようだと幸夫は思った。
腹が減る。そういえば朝飯がまだ来ていない。寝ていてノックの音を聞き逃したのだろうか。
幸夫はドアを開けてみた。朝食の盆はちゃんとあった。
その盆に白髪頭が突っ伏していた。久々に見る母親の姿だ。ただし、あるのは頭だけで、首から下が見当たらなかった。
朝食はご飯に味噌汁に、魚の塩焼きだった。生首が乗っかって潰しているので、幸夫も流石に食べる気にはなれなかった。
盆から台所まで、廊下を点々と血痕が続いている。幸夫はそれを辿ってみた。
母親の胴体はテーブルの上に横たわっていた。首の切断面近くに出刃包丁が突き立っている。それを握るのは血みどろの母親自身の右手。まあ、事故なんだろうなと幸夫は思った。
俎板に刻みかけのネギと、切り落とされた数本の指があった。間違って自分の指を切ってしまい、慌てて転んだ拍子に首も切り落としてしまった、ということなのだろう。
隣のリビングには父親の死体があった。逆立ち状態で壁に立てかけられ、ゴルフクラブのアイアンが口から尻までを貫通していた。
これも事故なんだろうなと幸夫は思った。
静かだ。車が通る音も聞こえない。そういえば、隣の家の犬も暫く吼えていない気がする。
幸夫は、外に出てみることにした。まだ下駄箱に入っていた靴を履き、玄関のドアを開ける。
十年ぶりに見る家の前の景色は様変わりしていた。取り敢えず一番変わっているのは、郵便受けに頭を突っ込んだ死体があるということだ。郵便局員の制服を着た死体は、手紙や新聞を差し込む細い隙間に首から上が完全に入り込んでいた。中はどうなっているのだろう。幸夫は開けてみる気になれなかった。
通りを見渡す。走っている車はなく、停まっているものもクラッシュしていたり黒焦げになっていたりしていた。人の姿がない。少なくとも、生きている人は。側溝に嵌まっている肉団子のようなものは人間の死体だろうし、平らに潰れてアスファルトにへばりついているのも死体だろう。数人分が連なっている肉絨毯もあった。もう何日か経っているらしく、ツンと嫌な匂いが漂っている。
幸夫は隣家の庭を覗いてみた。犬小屋の前でシベリアン・ハスキーが、口から肉の塊のようなものを吐いて死んでいた。もしかして、吼えた拍子に内臓が飛び出したとか。事故死は動物にもあるようだ。
生きている人はいないのか。幸夫は大通りへ向かって歩く。焼け落ちた家に倒壊した家。クラッシュし、横転した車両。黒焦げ死体のそばでは切れた電線が火花を散らしながら踊っている。
遠くでエンジン音が聞こえる。まだ誰かが運転しているようだ。そうだな、人類が絶滅などする筈もないし。幸夫はそちらへ歩く。
向こうの通りからミニヴァンがやってくるところだった。幸夫が手を振ると、運転している男も気づいたようで顔を輝かせた。男も生存者を探していたのだろうか。とても嬉しそうで泣き出しそうにも見えた。
ミニヴァンがこちらに加速したところで突然横から電柱が倒れ込んできた。幸夫は「あっ」と声を上げたが男には聞こえなかっただろう。
ドグワシャッ、とミニヴァンの前面に電柱がめり込んだ。フロントガラスが砕けボンネットが凹み、何か丸いものが飛び出してきた。幸夫の方にコロコロと転がってくる。
運転していた男の、ちぎれた生首だった。その顔はまだ嬉しそうに笑っていた。
初めて出会った生存者はすぐ死んでしまった。車に他の生存者は乗っていなかったのだろうか。潰れたミニヴァンを見直すと、派手に爆発して炎と一緒に肉塊が飛び出した。それには女性の上半身っぽいものも混じっていた。宙で両腕を泳がせ、ビルの壁にぶつかってベチョリと潰れる。
生存者はいたっぽいが、今死んだっぽい。
幸夫は大通りを歩き続けた。死体ばかりで動くものはない。犬や猫の死体も多かった。雀や烏が数百羽集まって、羽毛の団子になって死んでいた。道の真ん中に鮫の死体がある。海から偶然ここまで飛ばされて、落下死したのだろうか。
コンビニがあった。入り口には胴を輪切りにされた店員の死体が転がっている。自動ドアに挟まれたのだろうか。店の前、建物の右端の方に、若い女が座り込んでいた。ブルブル震えている。まだ生きている。
女は幸夫に気づいた。安堵した様子で必死に手を振ってくる。
「助けて。お願い。みんな死んでしまって……」
女は二十代前半くらいで美人だった。これを機会にロマンスなんかが生まれちゃったりしないだろうか。幸夫はつい不謹慎なことを考えながら歩み寄った。
「大丈夫ですか」
一人で心細かったのだろう、女は立ち上がって幸夫に抱きつこうとした。と、その前に鼻をヒクヒクさせて口を大きく開いた。
「ひゅぁー、はーっ、くぢっ」
女が大きくくしゃみをした。ボバッと女の目玉が飛び出してその眼窩と鼻の穴からドロドロドロドロと脳味噌が溢れ出した。噛みちぎられた舌がベチャリと落ちる。
女はそのまま崩れ落ちた。幸夫の服には女の脳漿が少しへばりついていた。
幸夫はその場を離れた。
七
あれからどのくらい、歩き続けているのだろう。幸夫は思う。
生存者の姿は全く見かけなくなった。腐った死体ばかりの廃墟を幸夫はただ、歩く。一応生存者を探してはいるのだが、もう二度と見つかることはないだろうとも感じていた。
人類はあっさりと、絶滅してしまったらしい。
核戦争でも疫病でもない。天変地異でも巨大隕石でも宇宙人の来襲でもない。ただの、事故死だ。本当に、ちょっとしたことで、人類は滅んでしまった。
人差し指は折れたままだが、痛みは全く感じなかった。ふと見ると、皮膚が腐り落ちて骨が見えていた。空腹も感じなくなっている。暫く前に頭からズルリと何かが落ちる感触があったのだが、幸夫はそれを確認しなかった。
世界は、幸夫だけになってしまった。
することがないからやはり歩き続ける。もしかして永遠にこのままなのだろうか。いや、何万年か何億年かしたら地球は太陽に呑み込まれるという話だったから、それまでの辛抱か。
「賭けは俺の勝ちだな」
声が聞こえた。幸夫は周囲を見回すが誰もいない。それに、頭に直接響くような声だった。
「言ったろ。人間なんて、運のパラメータをいじるだけで簡単に絶滅するって」
「ううむ。予想よりも脆かったな」
別の声が言った。こちらはちょっと悔しそうだ。どうやら彼らは幸夫に話しかけているのではなく、互いに会話しているらしい。彼らは神様なのだろうか。
「おっ、でもあれを見ろよ。まだ一匹歩いてるじゃないか。とするとまだ絶滅はしてないということになるぞ」
一匹というのはもしかして幸夫のことだろうか。
最初の声が言った。
「いやいや、よーく見てみろ。あれはゾンビさ。とっくに死んでる。という訳で、賭けは俺の勝ちだ。今日のオヤツはお前の奢りだ」
「……仕方ないな」
声はそれきりやんだ。
幸夫はゾンビだったらしい。いつの間に、どうしてそうなってしまったのだろう。もしかすると、ずっと引き篭もっているうちに死んでしまっていたのだろうか。異常現象が起きる前に。
それにしても、人類なんて、オヤツ一回分の価値しかなかったらしい。
幸夫は神に殺してくれと頼もうとしたが、声帯も腐っていたらしく、声は出なかった。