翌日、エルレシア姫と騎士達は王宮を出発した。騎士達の多くは馬に跨り、馬に乗らぬ者は馬車に乗り、挑戦者たる風貌を国民に晒している。民は道の両脇に集まり、騎士達に手を振り続ける。ゲームに敗北すれば国民の半数が殺される。民の顔には希望と諦めが混じっている。草花の模様が彫られた綺麗な馬車の窓からエルレシア姫が手を振り返す。国民に感謝と謝罪を告げる姫の声は歓声に掻き消される。姫様のためなら仕方ない。民は涙を流しゲームの勝利と姫の生還を祈る。エルレシア姫もまた目を潤ませている。
行列が城塞都市を出ると姫が咳をし始めた。侍従が慌てて窓を閉める。バラザッドとベルリクが、ユアレと名なしの男がそれぞれ一つの馬車に乗っている。向かい合わせに座っていても彼らは何も喋らない。ローソルド王は自分で馬を駆っている。その横を進んでいるのは宰相ライアス。シアン・マリウとモナサム・エンデル、クレムも自分の馬に跨っていた。
前方に小高い山が見えてくる。大地を突き破りそこにあった村を壊滅させ、一呼吸ほどのうちに完成したという。昨日、ピエロが場所を指定したのと同じ頃に出現したようだ。裾野の幅は一キロ、標高は三百メートル程度か。ローソルドの周辺は平野が多いため、山頂からはこの地方が一望出来るだろう。山腹には隙間なく木々が続いている。
麓では先に着いた兵士達が一行を迎えた。ある地点に兵士達の手で赤い線が引いてある。そこから先へ進んだ偵察の兵は一瞬で黒焦げになってしまったのだという。ゲームフィールドの境界線。
ローソルド王が騎士達に言った。
「万が一のため、一週間分の水と食料を持たせる。酒もある。傷口の消毒に使うのも、勇気を奮い起こすために使うのもいいだろう」
「おそらく不要と思われますが、頂いていきます」
代表して宰相ライアスが答える。
ローソルド王は山の斜面を見やった。既に黒焦げの死体は取り除かれているが、ここから先は姫と八人の騎士しか進めない。
「では、そろそろ出発した方が良いかと」
ライアスがローソルド王に告げた。
王は厳しい表情で頷いた。エルレシア姫の馬車に歩み寄り、侍従にドアを開けさせると、王自らが姫の手を引いて降ろした。
「お父様」
エルレシア姫は父親を抱き締めた。ローソルド王も泣き出しそうに顔を歪める。
「案ずるな。八人の騎士がお前を守ってくれる。最強の騎士達だ」
滲む涙を押さえてローソルド王は言った。
「さあ、行きなさい」
父親から離れ、エルレシア姫は騎士達の前に進み出た。
「どうか、よろしくお願いします」
エルレシア姫は改めて深く頭を下げた。ドレスではなく薄い鎖帷子と皮の胸当てを着けていたが、彼女の気品ある美しさを些かも損ねはしなかった。これ以上の重装備は彼女の体が耐えられず、また、地獄王の前ではどんな装備も無意味だ。
「では、参りましょう」
ライアスの促しに、エルレシア姫は静かに頷いた。
水の入った革袋と携行食の詰まったバックパックを騎士達は手分けして背負った。夜の闇に備えランプと松明も忘れない。
「姫を頼むぞ。勇者達よ、必ず生きて帰ってきてくれ」
ローソルド王の声は切なげだった。生還の可能性が限りなく低いことを知っているからだ。
騎士達を代表してライアスが礼を返した。王の言葉など興味なさそうな者も何人かいた。
王と兵士達に見送られ、八人の騎士とエルレシア姫は山頂へ向かって出発した。兵士が黒焦げになったという赤いラインをモナサム・エンデルが真っ先に越えてみせる。無事なことを確認し、各人が慎重に越えていく。エルレシア姫は涙ぐみながら父王に手を振った。そして、王達の姿は見えなくなった。
木々の間の細い道を、騎士達は姫を中心にして歩く。鳥の鳴き声どころか生命の気配が全く感じられず、彼らの足音だけが妙に大きく響いた。
「静かですね」
時が止まったような林を見回して、エルレシア姫が言った。
「それはそうです。フィールドの内部には私達以外の生命は存在しません。ここにある植物も見せかけだけです」
姫の後ろを歩くユアレが説明する。
「遥か昔からの伝統で、ゲームにはこの場所が使われてきました。一種の聖地と呼べるかも知れませんね。この中では地獄王でさえ力を制限されるのです。それは同時に、地獄王自身がそのように設定しているということになりますが」
「あんたは色々知ってるようだなユアレ」
前を歩く傭兵シアンが振り返った。ユアレは微笑を返すだけだ。
「あんたの正体なんざ俺にはどうでもいいが、役に立ちそうなことがありゃあ出し惜しみせずに教えてくれよ」
「山頂に着いたら一通りご説明しますよ。ゲームのたびにそうしていますのでね」
エルレシア姫は騎士達の歩くペースに黙って合わせていたが、色白の顔から更に血の気が引いていることにライアスが気づいた。
「姫様、少し休憩を取りましょう。もっとゆっくり歩く気遣いをすべきでした。申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です」
姫はそう言って手を振るが、強がっているのは明らかだ。騎士達の列は一旦停止する。姫が胸を押さえて深呼吸するのを見て、傭兵シアン・マリウが言った。
「病弱って噂は本当だったんだな。肺か、心臓か」
「両方です」
エルレシア姫が答えた。彼女の見せる表情は、苦笑ですらも儚げで美しい。
「頂上まではもう少しあり申す。お背負い致そう」
モナサム・エンデルの申し出に、姫は頬を赤らめて首を振った。
「いえ、本当に大丈夫ですから。この程度の坂道でしたら私にも……」
モナサムの提案は純粋な善意からであったろう。だが騎士達の間から密やかな殺意が洩れたのは何故か。
「そうか。だがくれぐれも無理はなさるな」
モナサムは穏やかにそれだけ言った。殺意の主に彼は気づいていただろうか。騎士達は無表情だった。
やがて行軍は再開された。
辿り着いた山頂は三十メートルほどにわたって平坦になっていた。疎らになった木の隙間から、ローソルドの城塞都市を含む平野の景色が見渡せる。エルレシア姫は振り返って麓に目を向けたが、帰還を待ち侘びているであろう父王達の姿は木々の陰となって見えなかった。
山頂の中央部には白い柱があった。石の柱だ。高さは五メートルほど、幅は一メートルほどもある太いものだった。柱のある区画は土ではなく、同じ種類の石が敷き詰められていた。敷石の大きさはまちまちで、床は綺麗な平面にはなっていない。
腰掛けに使えそうな石塊が並んでいた。弧を描くように八つと、それと柱とに挟まれるようにして一つ。
「十七年前のトートラス戦では柱が破壊されたのですが、やはり元通りになっていますね」
石柱の表面を撫でながらユアレが言った。
他の騎士達は荷物を置いて石塊に腰を下ろし、エルレシア姫はライアスに勧められ柱の前の一つに座った。行儀良く揃えた膝の上に手を置いている。
「さて、夜の訪れまではまだ時間がありますね。ユアレ、あなたの持つ知識を皆に分けて頂けませんか」
姫から一番近い場所に座るライアス・ファンデブルー・デリッセンが言った。ユアレは頷き、石柱のそばに立つ。
「それではまずこの柱を見て下さい。ゲームのルールが書いてあります」
全員が柱を見上げ、その表面に走る細かい傷に気づいた。
彼らの知る文字ではない、単なる傷であったものが、急に意味のある言葉となって彼らの脳に届いた。
一、勝利条件は神を殺すことである。
二、敗北条件は姫が死ぬことである。
三、神は騎士が一人死ぬごとに一段階弱くなる。
四、勝利した場合、最後に生き残った者が神となる。
「ほら、簡単でしょう。ルールはこの四つだけです」
変わらぬ微笑を湛えてユアレが言った。
暫くの間、重い沈黙が続いた。黒衣のベルリクは無表情で、名なしの男はぼんやり空を眺めている。他の騎士達は眉をひそめ、柱の文章を睨みつけている。エルレシア姫は不思議そうに小首をかしげている。
「……これは、どういうことだ」
最初に口を開いたのは宰相ライアスではなく、巨漢モナサム・エンデルだった。彼の声は力強さを失い、呻きに近かった。
「どういうことだ、とは」
ユアレが聞き返す。
「拙者が戦うべき相手は、地獄王だと思っていたが」
「ええ、ですから地獄王です」
「しかし、この文には、いやこれが文であるかどうかは分からぬが、『神』となっているようだ。それとも、拙者の目にだけそう見えるのか」
「いえ、皆さん同じように見えていると思いますよ。つまり、神が地獄王です」
ユアレは平然とそれを告げた。モナサムが何か言いかけ、顔が苦しげに歪んだ。囁くような声で死に損ないのクレムが喋り始めた。
「分からぬな。わしは神というものを信じておらぬが、多くの者が信じておる神とは、世界を創り人間を見守る、慈愛に満ちた存在ではないのかな。逆に、地獄王とは魔物達を統べ人間を苦しめる存在であると聞く。日照りも疫病も、全て地獄王のせいだと言われておる。実際に地獄王の姿を見た者はおらぬがな。そんな地獄王と神とが、どうして結びつくのか分からぬ」
ユアレは頷いた。
「皆さんそうおっしゃいますよ。ですから私は毎回同じ説明をしています。同じ説明を何百回も繰り返してきたのですよ。一語一句違わぬ台詞を毎回喋っているのです。結論として、神が神を務めることに飽きたので地獄王を名乗った。それにも疲れたのでゲームを始めた。ゲームとは、神を辞めて別の者に代わってもらうための儀式なのです」
「あの……神様が、飽きる、などということがあるのですか。神様なのに……」
エルレシア姫が遠慮がちに尋ねた。自分の質問が場違いでないか気にしているように。
「ええ、飽きますとも。それはもう飽きます。皆さんには想像もつかないでしょうが、それはもう飽きて飽きて恐ろしく苦しくて飽きます。神は全能なのです。世界を創って壊して、また創っては壊し、創って壊して創って壊して、同じことを繰り返すのです。世界を創ったり壊したり、創ったり壊したり、延々と同じことを繰り返します。飽きたのにすることがないのでやはり創ったり壊したり同じことを繰り返します。神は眠ることも出来ず自分では死ぬことも出来ず世界を創ったり壊したり、ははっ、創ったり壊したり延々と繰り返すのです。そう、延々と同じことを繰り返すのですよ。あははっ、世界を創ったり壊したり飽きて飽きて仕方がないのに創ったり壊したり延々と繰り返すのです。あははははっ、ははっ、延々と繰り返すのです、あはははははっ」
ユアレは壊れたカラクリ人形のように同じ台詞を繰り返し始めた。顔は微笑したまま、声音も冷静そのもので。彼の笑い声は地獄王の使者の虚ろなそれに似ていた。エルレシア姫の瞳に怯えが映る。バラザッドは薄気味悪そうにユアレを見ている。モナサム・エンデルは小さく呟いている。「馬鹿な。拙者の祈っていた神は……馬鹿な……」と。名なしの男はぼんやりしているだけだ。
傭兵シアン・マリウがわざとらしく大きな咳払いをした。ユアレの笑い声が止まる。
「おや、失礼しました。話を続けましょうか」
早速シアンが左手を上げた。
「質問だ。つまり神だか地獄王だかは、とっとと殺されて別の者に立場を譲りたがっているってことだな」
「ええ、その通りです」
「だったらどうして生贄とかゲームとか、こんな面倒臭え手続きを踏むんだい。自殺して適当な奴にポイと譲りゃあ済む話じゃねえか」
「ですから自殺は出来ないんですよ。この煩わしい手続きを踏むのが太古の昔から伝統になっていまして、地獄王といえどもそれに逆らうことは出来ないのです」
全能の神とさっき表現したばかりだが、ユアレは矛盾することを言った。
「地獄王が殺されたがってるというなら、意外と楽に勝てるんじゃないか」
指摘したのはバラザッドだ。ユアレはにこやかに首を振る。
「それが残念ながら、神も手加減しないのが伝統でして。これまで地獄王のゲームは七百六十五回行われ、まだ誰も勝ったことがないという訳です」
「今回が七百六十六回目か。キリが悪いな」
呟くバラザッドの口元はニヤニヤ笑いを浮かべている。
「その七百回以上の殆どに、お主は参加してきたのかな」
クレムが問う。
「私が参加したのは六百三十四回だけです。地獄王が私を引っ張り出したのが四十三回目からですし、領主に参加を拒否されることもありますので」
騎士達は眉をひそめた。傭兵シアンが尋ねる。
「んん、どういうことだい。あんたを毎回甦らせてるのは地獄王ってことかい」
「ええ、そうです」
「じゃああんたは地獄王の手下か。騎士の中に敵を入れちまったな」
シアンの手が腰の剣に触れた。抜いてから首を刎ねるまでは一瞬だ。ユアレがすぐに両手を上げ訂正する。
「いえ、手下ではありません。私も地獄王を倒すために毎回全力を尽くしています。早く楽になりたいですからね。私の立場の者を毎回復活させてゲームに参加させるのも伝統なのですよ」
「伝統は太古の昔から続いていると言いましたね」
黙って考えていたライアスが漸く話し始めた。
「これまでも神の交代は繰り返されてきたのですね。その際は同じようにゲームが行われ、勝った者が神を継いできたと。今の地獄王も以前は騎士としてゲームに参加していた人間だったということになる。そしてユアレ、あなたも神を経験したことがあるような口ぶりですね。もしかすると地獄王の前に神をやっていたのではありませんか。前任の神を復活させて騎士として参加させるのも伝統ということでは」
「いやあ、素晴らしい」
ユアレがライアスに拍手を送った。その音は静寂の山で虚ろに響くだけだ。
「私が話す前にそれを指摘出来た騎士はこれまでで三人だけです。皆死にましたけどね。ついでに申し上げておきますが、今回もし万が一地獄王に勝利することが出来たとしても、私は神になどなるつもりはありませんので。あんな辛い経験は二度と御免です。創ったり壊したり、同じことを延々と繰り返すような、そう、同じことを繰り返す……」
また同じことになりそうだったのでシアンが質問を投げた。
「それで、勝利条件について聞いときたいんだが。騎士が一人死ぬと一段階弱くなるってのはどんな具合だ」
「ああ、そうですね。その話をしなければなりません。ゲーム開始と共に地獄王がフィールド内に入ってきますが、その時点では無敵です。絶対に殺せません。騎士が一人死ぬと一段階、地獄王の形態も元の人間に近づいていき、その分僅かながら倒せる可能性が生じます。一段階で弱くなる程度はまちまちですし、騎士が全員死んで地獄王が本来の姿に戻っても、人間の力を圧倒的に凌駕しています。実際問題として倒せるとすれば、騎士が二人か三人生き残った状態でなんとか隙を作ってというところでしょう」
「こいつは大変だ。最低一人は死なんと相手は無敵とはな。人柱には誰がなる」
虐殺鬼バラザッドが意地悪く言う。だがすぐにモナサム・エンデルが手を上げた。
「拙者がなろう。先鋒を務めさせてもらう。地獄王に一太刀浴びせることが出来れば、拙者はそれで充分だ」
「フン。大した自己犠牲だ」
バラザッドは皮肉を言ったが少し鼻白んでいた。続いてクレムが手を上げた。
「次はわしが行く。といっても簡単に死ぬつもりはないが。死力を尽くして地獄王に手傷を負わせてみせよう。後はお主らに任せる」
バラザッドの目が細められた。彼は今度は何も言わなかった。
「騎士が全員死んだら誰が地獄王と戦うんだい。お姫さんか」
さっきのユアレの言葉にシアンが突っ込んだ。
「ええ、そうなりますね。姫自身が神を倒したという例はこれまでの歴史で二例あるようです。余程の女傑だったのでしょうね。今回はそれを望むべくもありませんが」
病弱の姫は恥ずかしそうに顔を伏せた。彼女の腰には短剣があるが、彼女がこれを使いこなす姿は誰も想像出来まい。
「姫様、ご心配なさらぬよう。そうなる前に我々が地獄王を倒しますので」
ライアスが姫を安心させるために言う。ユアレの話を聞いて尚、ライアスがどれほどの自信を持っているかは定かでないが。
モナサムが聞いた。
「一つ気になることがある。拙者には関係のないことだが、地獄王に勝ったら、最後に生き残った者が神になる、ということだな。生き残ったのが姫と騎士、複数だったらどうするのだ」
ユアレの代わりに答えたのは傭兵シアンだ。
「察しの悪い奴だな。殺し合うに決まってるだろ。神の座が辛いとかなんとか言われたって、なってもねえのに実感出来る訳はねえ。全能の神になれると知りゃあ聖人君子だって仲間を殺すさ。自分が神になりたくて互いに殺し合い、折角守り通した姫も殺す。そんなことがこれまでだって幾度もあった筈さ。なあ、そうだろ、ユアレ」
「あなたもなかなか頭の切れるお人ですね」
ユアレの返事はそれだけだった。
姫を守るために応じたゲームだったが、ゲームに勝ったとしても姫は殺されることになるかも知れない。騎士達の誰もがそれを思っただろう。エルレシア姫自身も。
宰相ライアスが改めて告げた。
「姫様、私は今ここで誓っておきます。地獄王を倒した後、私は臣下として姫様のご指示に従います。それがどのようなご指示でもです」
エルレシア姫の可憐な瞳には不安と戸惑いと、そして諦めが浮かんでいた。
「デリッセン様……気を遣って下さってありがとうございます。でも、私には良く分かりません。神様になるのに相応しい方がいらっしゃれば、その方が神様になれば良いのだと思います」
傭兵シアン・マリウが言った。口調はぞんざいだが優しい声だった。
「お姫さん、あんたが不安のせいでショック死しないように言っといてやる。俺が契約した内容は地獄王を倒すこととあんたを守ることだ。他の生き残りが涎垂らしてあんたを狙ったとしても、俺が守ってやるよ。俺にとっちゃあ神よりも契約が大事なんでね」
「クク、一番最初に裏切りそうな奴が良く言う」
バラザッドの言葉で、シアンの目に狂猛な怒りが湧いた。しかし彼は自制して穏やかに返した。
「まあ、見てなよ。お前がその時まで生きてりゃな」
「わしは……」
死に損ないのクレムが言った。右の目から熱く潤んだ視線を姫に注ぎながら。
「わしは、出来ることならば、エルレシア姫様に、神になって頂きたい。そうなれば、この世界は楽園になるだろう」
「そんな、私にはそんな大役は出来そうにありません」
姫は慌てて首を振った。ユアレが微笑したまま言う。
「まあ、それは地獄王を倒した後、私抜きでゆっくり決めて下さいね。どうせ勝つ可能性は非常に低いですから」
「……夜が来るな」
ぼそりと、黒衣のベルリクが呟いた。
辺りはかなり暗くなり、松明の炎が彼らの頬を赤く染めている。天の頂きにある光が、小さなただの点となっていた。
「なんか早くねえか。もっと時間はあると思ったが」
傭兵シアンの疑問にユアレが答える。
「話すべきことを一通り話しましたので地獄王が時の流れを速めたのでしょう。皆さん、心の準備はいいですか。あの光が消えたら始まりますので」
皆が黙って見守る中、やがて、光点が、消えた。
「ゲーム開始です」
ユアレが告げると同時に、漆黒となった空に異変が生じた。ピシリ、と、不気味な音が響き、光のあった地点に十字型の亀裂が生じたのだ。
「おお……」
クレムが嘆息した。天の亀裂はみるみる広がっていき、隙間から灰色の靄のようなものが覗いた。天が揺れている。いや、地鳴りまでが聞こえている。大地も揺れているのだ。
「おい、見ろよ」
傭兵シアンが水平方向を指差した。闇が壊れたせいで、その遥か先には地表が見えていた。いやそこは、本来ならば空であったところだ。
「大地がめくれ上がっていますね」
宰相ライアスの顔は平静を保っていたが声は微かに震えていた。それを悔やむように彼は唇を噛んだ。いつの間にか皆、立ち上がっていた。
虚ろな光に照らされ、世界全体が歪んでいた。山頂から見渡せるあらゆる範囲で、いやそれは世界の全てに及ぶのだろう、世界を支える大地が、広大な平野を森を砂漠をそして人の住む都市を載せたまま、毛布の一部を摘まんで引っ張るように皺を作りながら一ヶ所に集められていく。裂けた空の部品も黒いカーテンとなって落ち、クシャクシャの大地と融合する。結界の内部には異常が及ばないようで、山は微動だにしなかった。
世界が、縮められ、丸められようとしている。大地と空が去った場所には灰色の空白が残るだけだ。いや、それは残っていると言えるのか。それは真の虚無であり虚空ではあるまいか。
「どうなっている。世界が滅んでいくぞ」
モナサム・エンデルの叫び。
「滅びではなく単なる形態変化です。いつものことですよ」
ユアレが答えた。
「地獄王は神であり世界そのものですから。フィールド内に侵入するためには、拡散していた体を凝集させなければならないのです」
「でも、住んでいた人々はどうなったのですか。ローソルド王国の皆さんは、私の父は……」
エルレシア姫は動揺のため心臓に変調を来たしたのか、胸を押さえて苦しげだ。
「彼らも含めて世界であり地獄王ですから。私達の敗北でゲームが終了すれば、再び元の状態まで拡散し、住民は何が起こったのかも知らずいつもの生活を続けることでしょう。多少世界が変化していることはありますがね。これまでも同様に行われてきましたし、誰も覚えていないというだけですよ」
ユアレの説明を聞きながら、巨漢モナサム・エンデルが松明を投げ捨てた。灰色の空は充分な光を与えている。モナサムは兜をかぶり、重い音をさせて背中の大剣を抜いた。一メートル半の両刃の剣は十キロ近い重量があるだろう。それを片手で軽々と持ち、別の手で麓に近い一点を指差した。
「あそこに集まっている。登ってくるのもあそこからだろう。拙者は行く」
「そうかい、頑張りな」
傭兵シアンが気楽に言った。そんな彼も剣を抜いている。右手に黒い刃の長剣、左手に波刃の短い剣。黒い剣は超硬度と靭性を誇るフラザ鋼だ。
「それでは、失礼する。姫のご無事を祈ります」
エルレシア姫に一礼し、返事も聞かずにモナサム・エンデルは走り出した。すぐに木々の間に消える。
「では、わしも参る。ここがわしに相応しい死に場所だ。エルレシア姫、御身に幸あらんことを」
死に損ないのクレムが姫に深く頭を下げ、モナサムの後を追った。左右のテンポが微妙に違う足取りで。
「では、行きましょう。姫様、少しお待ち下さい。必ず勝って帰って参ります」
宰相ライアスが挨拶し、残りの騎士達も走り出した。バラザッドは皮肉な笑みを姫に向け、名なしの男は見向きもせず、黒衣のベルリクは無表情に姫を一瞥して。
「皆さん、どうかご無事で」
彼らを襲うであろう凄惨な死を思ってか、エルレシア姫の目には涙が滲んでいた。木々の奥から届いたユアレの声が、そんな彼女の顔を青ざめさせた。
「誰がなっても同じですよ……どうせ必ず、気が狂う……」
世界は灰色の虚無と化していた。
十二
斜面を駆け下りる西ハイネの筆頭将軍モナサム・エンデルは木々の倒れる音を聞いた。彼は仇を求め雄叫びを上げた。木々を押し倒しながら登ってくるものが見えた。それは巨大な極彩色の、目も手足もないドロドロの塊だった。幅三十メートルはあるだろう。でたらめに波打ちながら近づいてくる、それが、地獄王であった。モナサムの叫びに怒り以外のものが混じった。彼は一瞬躊躇しかけ、それでも一メートル半の大剣を混沌に向かって振り下ろした。振り下ろそうとした。極彩色の怒涛が彼を呑み込んだ。地獄王に一太刀浴びせたと言えるのか、それとも剣の方が地獄王に食らわれたのか。圧倒的な質量がモナサムの甲冑を砕いた。モナサムの両腕が折れた。右膝が割れた。右大腿が折れた。右足が付け根からちぎれた。両肘が飛んだ。右肩が肉片となって飛び散った。胸骨と肋骨が砕けて肺が飛び出した。首の骨が折れた。兜がひしゃげて顔面が潰れた。頭蓋骨が陥没した。眼球が飛び出した。そしてモナサムの脳が潰れた。
死に損ないのクレムは斜面を登ってくる異常な質量にモナサムの死を確信した。クレムは不自由な手足で木をよじ登り地獄王の接近を待った。巨大な泥人形のような物体が見えてきた。幅十メートル、厚さ二メートルの胴体に七本の太い触手が生え、のた打ちながらやってくる。流れる肉の色彩は半透明で、中心に拍動する赤い球体が見えた。心臓か。クレムは懐から爆薬を取り出し、種火から導火線に火を移した。化け物が近づいてくる。クレムはタイミングを計って爆薬を投じた。地獄王のほぼ中央に着弾し、すぐに轟音がして激しい炎が上がった。半透明の肉片が大量に飛び散り地獄王の肉体に一メートル強の穴が開いた。その先には赤い心臓がある。クレムは飛び下りた。地獄王の心臓を目掛けて長剣を逆手に握り締め。瞬間、地獄王の肉が盛り上がって傷口が閉じた。クレムの体は肉に埋まり込んでいた。剣の切先から心臓までまだ五十センチある。クレムは体をもがかせて進もうとした。肉は腐食性らしくクレムの服も皮膚も溶けていく。角膜が溶けてすぐに視力を失った。右の義手が溶けて外れた。左足首の義足が外れた。左の手袋が溶け、金属棒で代用した薬指と小指が露わになった。それもすぐ溶けた。剣が溶けた。クレムは激痛にも構わず肉の中をもがき進む。右大腿の半ばから先も外れた。それも義足だ。顔の左半分を覆っていた鋼鉄の仮面が溶けた。肉を削ぎ落とされた素顔が見えた。生身の方の顔も既にそれに近づいている。腹が破れて腸が出てきた。溶けた。肺も心臓も溶けていく。首の骨が溶けて外れた。クレムは髑髏となっても肉の中を進み、溶けかかった歯が、地獄王の心臓に僅かに食い込んで、そこで止まった。
虐殺鬼バラザッドは真正面から斬りかかっていった。どんな手を使っても生き延びるつもりだったが、クレムの死に様を見て気が変わったのだ。地獄王の胴が五メートルほどに縮んでいた。触手の数は減り腕に似てきたが、その表面に無数の金属の刃が鱗のように並んでいる。バラザッドはマントを広げ四本の腕で四つの凶器を抜いた。長剣が二振りと金棒と鎌状の短剣と。「ハハハッ」バラザッドは笑いながら地獄王の肉を裂いた。ゴムを切るような手応え。腐食性は失われたようで剣は溶けない。傷口に金棒を突っ込んで抉る。風圧が背後から来た。バラザッドは身を沈めて躱した。躱したつもりだった。赤いマントが裂け甲冑も砕けて背中が爆ぜていた。傷は脊髄まで達したようで足がうまく動かない。地獄王の腕に生えていた無数の刃が垂直に立ち、腕全体が高速で回転していた。刃に付着した小さな赤い肉が散る。途中で刃が立ったために見切りを誤ったのだ。「ハハッ」それでもバラザッドは鬼のような顔で笑った。別の腕が襲ってきた。左足がうまく動かず、バラザッドは金棒で防ごうとした。ギャギギッと嫌な音がして、金棒が無数の刃によって分解された。右の腕が二本共巻き込まれ、細かい肉と骨の欠片となって飛び散った。右肩が削り取られ肋骨が持っていかれた。刃が肺を微塵切りにした。心臓が弾けた。胸部が破裂した。血塗られた地面を跳ねるバラザッドの生首は、まだ笑おうとしていた。
バラザッドが肉片に変わるまでの間に名なしの男は十七本の矢を射た。その全てが地獄王に命中していたがダメージは与えていないようだ。肉が分厚いため矢だけでは心臓に届かない。宰相ライアスと傭兵シアン、黒衣のベルリクが地獄王に襲いかかった時、地獄王は形態変化を終えていた。五本の腕のうち二本が下に回って足となり、一本は頭になった。体も縮んだがまだ身長三メートルはある、極彩色の巨人。頭部に眼球が出来ている。名なしの男は二本の矢を同時に射て、二つの眼球を正確に貫いた。傭兵シアンと黒衣のベルリクが地獄王の胸を裂いた。守りの薄くなった心臓を狙い名なしの男は矢を放った。それが命中したかどうかを確かめることは出来なかった。ポヒュッという不思議な音を聞いただけだ。地獄王が撃ち出した圧搾空気は名なしの男の胴に命中し粉々にした。名なしの男は宙を飛ぶ生首となって自分の腕を見た。まだ弓を持っている。矢をつがえようとするが腕は動かないまま地面に落ちた。「さっきのは命中した筈だ」と彼は呟こうとしたが声にはならなかった。
矢は地獄王の心臓を僅かに逸れていた。名なしの男を責める訳にはいかない。圧搾空気とかち合って軌道がずれたのだ。「地獄王の動きを止めて下さい」ユアレが声をかける。三人の騎士達がうまく立ち回りながら巨人の足を斬りつける。巨人は四度目の変化を遂げて外見が人間に近づいていた。今は身長二メートル二十センチの薄い色彩の大男だ。武器を持たぬ代わりに両手が大きな鉤状になっている。騎士達は仲間が半分に減っても動揺しない。シアン・マリウの白い衣が破れて鎖帷子が露出している。先程の圧搾空気が掠ったためだ。眼球の再生した地獄王の顔が口を尖らせた。何か来る。身構える三人に霧状の液体が噴きつけられた。ベルリクはマントで防いだ。マントが溶けた。跳んで逃げた傭兵シアンの左足首に飛沫がついた。煙を上げて肉が溶けるのを見て、シアンはすぐ自分の左膝を切り落とした。宰相ライアスの左前腕にも飛沫がついた。ライアスは躊躇した。それはほんの僅かな時間だったが、肘を切り落とした時には遅かった。肘の断面から紫色の液体が滴っている。ライアスは舌打ちしながら再度剣を振った。肩の付け根ぎりぎりで切断する。その肩口からも血ではなく毒液が流れ出すのを見た時、ライアスが壊れた。「あひょああああああああ」鋭利な美貌をぐしゃぐしゃに歪めてライアスが悲鳴を上げた。仲間を置いて彼は斜面を駆けていく。「姫様、姫様を殺して、私も……」しかしライアスはぐにゃりと崩れ落ちた。足が軟体動物のように曲がっている。ライアスの全身が煙を上げていた。銀髪が全部抜け落ちた。美貌が弛み、崩れ、溶けた。眼球が腐液に押されて転がり出た。ライアスの手足が厚みを失っていく。そして、ローソルド王国の宰相ライアス・ファンデブルー・デリッセンの痕跡は、白い甲冑の一欠片だけとなった。
ユアレが何かをたぐるように両腕を振った。地獄王の周囲の木々が切れて倒れていく。カードにつけた細い鋼線の仕業だ。黒衣のベルリクは咄嗟に身を翻した。傭兵シアン・マリウは鋼線を躱そうとしたが片足のせいで跳躍が鈍った。腰が斜めに切断された。腸をばら撒きながらシアンは地面に落ちた。「ユアレ、てめえ」シアンが唸った。「目的を果たすことが全てです」ユアレは平然と答える。恐るべき切れ味を誇る鋼線が地獄王に幾重にも巻きついた。肉を裂いて食い込んでいく。だが同時に地獄王の変化も始まっていた。右腕の鉤が伸びて鋭い剣となり、自分の肉ごと鋼線を切った。「またか。相変わらず脆い武器です」ユアレが同じ顔で憎々しげに呻いた。地獄王は剣を持つ長身の男になった。衣服の輪郭までがうっすらと判別出来る。剣は手と融合しているようだ。流れ動く表面の色彩は更に薄くなるが透明度は下がっている。その地獄王が剣を振り上げた。先には傭兵シアンがいる。上半身だけでは逃れようがない。シアンは黒衣のベルリクに目配せし、左右の剣を捧げてクロスさせた。「来いよ、クズ」シアンが挑発した。地獄王の顔は笑みを浮かべているようだった。色彩豊かな剣が振り下ろされた。シアンは剣のクロス部分で受けた。二振りの剣があっけなく折れた。地獄王の剣がシアンの脳天にめり込みサークレットを割り頭部を両断し、鎖帷子と一緒に胴を真っ二つにした。左右に分断されながら、シアンの口元もまた笑みを浮かべていた。
黒衣の剣士ベルリクは無表情に立っていた。彼の右肘から先がない。命を捨ててシアン・マリウが作った機会を逃さず、ベルリクは細身の剣で地獄王の背を刺した。だが切先が心臓に達する前に身をひねった地獄王の剣がベルリクの右腕を切り落としたのだ。既にシアンは死んでいる。ベルリクのスピードは人間離れしていたが、地獄王はそれを上回っていた。「拾え」剣を握ったまま転がるベルリクの右腕を示し、地獄王が言った。彼が着ていたのは薄手のハーフコートだった。半端に撫でつけられた髪が揺れている。身長は百八十五センチ。色彩の流れは緩やかになり、たまに表面が軽く盛り上がる程度だ。ユアレは新たな鋼線の準備を始めている。ベルリクは闇色の瞳で自分の右腕を見据えている。と、ベルリクが跳んだ。自分の腕ではなく別の場所に落ちていたバラザッドの剣に。左手がその片刃の剣を掴んだ瞬間、地獄王の剣がベルリクの首を切り落とした。転がっていくベルリクの生首は無表情のままだった。
「調子はどうだ、ユアレ」
最後の騎士となったユアレを振り向いて地獄王が笑いかけた。形は人間だが、色彩はまだ幼児の塗り絵のようだ。手から分離した剣をクルクルと楽しげに回してみせる。
地獄王の声には、ユアレへの愛情さえ込められていた。
「調子は良くないですよ、ソグフェン。もっと手抜きの仕方を学びなさい。それにしても地獄王などという陳腐な称号が恥ずかしくはなりませんか」
ユアレの声には憎悪しかない。
「その台詞を聞くのも何百回目かな。お前だって陳腐だったろ、紅蓮王。大体、お前も同じ手しか使わんな。もうちょっと工夫して早く俺を殺してくれよ」
元騎士ソグフェン、現神、自称地獄王は笑う。
「次はもっとまともな体を私に用意しなさい。これも毎回言ってるのに聞こうともしない。早く私を眠らせなさい」
「その台詞もこれまでと全く同じだ」
ユアレは両手を振った。十本の鋼線が全方向から地獄王へ向かって引き絞られていく。
「ほいっ、この角度も前と同じだ」
地獄王が剣を素早く振った。全ての鋼線が断ち切られた。
ユアレは叫んだ。表情の作れない顔で。
「このクズめっ、たった一億三千万年かそこらで音を上げおって。私など貴様の五倍も長く耐えたのだぞっ」
地獄王が笑った。
「その台詞も同じだ。じゃあまたな、パロミョーン」
「貴様のその台詞も同じ……」
地獄王はユアレの眼前にいた。彼は剣を振った。何度も何度も往復させた。ユアレが輪切りになった。縦に割れた。斜めに切れた。ユアレの中身が零れた。白い体液だけ。内臓も骨もない。殻と燃料だけの人形がユアレだった。
十三
「じごくおう〜地獄王がやってきた〜」
木々の奥から陽気な歌声が聞こえ、エルレシア姫は身を震わせた。
「さあ〜ゲームの時間だよ〜誰か俺を殺してくれ〜」
地獄王が、エルレシア姫の前に姿を現した。薄手のハーフコートは紺色で、髪は黒かった。顔の造りは整っているようでいて微妙に配置の狂った印象を与える。その顔は三十代半ばのものだった。
地獄王は、右手に長剣を握っていた。切先からは白い液体が滴っている。
左手は、見えない糸で男達の生首をぶら下げていた。虐殺鬼バラザッドの首があった。名なしの男の首もあった。傭兵シアン・マリウの真っ二つに割れた頭もあった。ユアレの顔の一部もあった。髑髏の欠片らしきものもあった。ベルリクの生首は今も目を開けて虚空を睨んでいた。
「ああ……」
エルレシア姫が弱々しい声を洩らした。
「皆、死んでしまったのですね」
姫は神であり全能の支配者である地獄王に問うた。地獄王は気さくに答えてくれた。
「そうだよ。首が回収出来ないものもあったが、八人の騎士は全員死んだ」
地獄王は姫の足元に生首達を放り投げた。
エルレシア姫は膝をつき、騎士達の残骸を見つめながら涙を零した。
「泣かないでくれ。どうか、そんな顔をして泣かないで」
地獄王自身が泣きそうな顔になって言った。
「そんな可愛らしい顔で泣かれたら、八つ裂きにしたくなるじゃないか。はは。あははははは」
地獄王の声音も表情もコロコロ変わる。エルレシア姫は胸を押さえた。呼吸が荒くなっている。
「これでもう、僕と君だけになっちゃったねえ」
灰色の空の下、猫撫で声で地獄王は言った。
エルレシア姫は、何も出来ず、ただ胸痛が収まるのを待っていた。ヘラヘラと地獄王は笑う。
「騎士が皆死んで私の思考は統合されたが、力は最も弱い状態まで落ちた。人間よりちょいましな程度さ。ちょいちょいまし、くらいかも知れんが。どうかね、試してみないかね」
試す、とは、戦ってみる、という意味であった。
「どうして……こんなことをなさるのですか。どうして、こんなことを……」
「死にたくても死ねないからだ。神は自分では死ねない」
地獄王は答えた。顔の筋肉がビクビクと震えている。
「だから伝統に則ってゲームを始めたんだ。頑張ったが、神として精一杯頑張ったが、たった一億三千万年しか耐えられなかった。だからゲームを始めたんだ。死にたくても死ねない。だから仕方なく同じことを繰り返してきた。創ったり壊したり、創ったり壊したり、同じことを延々と繰り返してきた。延々と繰り返した。幸福も平和も殺戮も悲鳴も喜びも全て無意味だ。ただ苦しいだけだ。創ったり壊したり、創ったり壊したり。同じことを何度でも、何千回も、何万回も、同じことを繰り返してきたんだ。仕方がないから繰り返してきたんだ。苦しいけど死ねないんだ。苦しいんだ。キャハーックルチーッ」
地獄王が甲高い声で叫んだ。口角が耳まで裂け目の位置までもが上にずれる。顔面がゴムで出来ているかのように。
「死にたくても死ねないっ死ねないっ苦しいっ死ねないっキャヒーッ死にたいいいいいっ助けてママ、ママーッママママママママママママ。ママママママママママ」
地獄王はその場で跳ね回り、更にはひっくり返って駄々っ子のように手足をバタつかせ始めた。終いには無表情に同じ発音を繰り返す。
エルレシア姫は唖然として地獄王の奇態を見守っていた。
地獄王の動きが止まり、一瞬で跳ね起きた。狂った顔が目の前に寄せられ、エルレシア姫は慌てて後ずさる。石塊にぶつかって転びそうになるその手を掴んで地獄王が引き止めた。
「心臓が弱いようだな。羨ましい。ああ、痛みが欲しい。死ぬような痛みが欲しい。神だから誰も傷つけてくれないのだ。痛みがないというのはなんて苦しいんだ。クルチーッ。誰か私の心臓を抉ってくれ。思いきり抉ってくれ。そうだ抉れ。抉れ抉れ抉れ抉れ。いいか、まだお前にもチャンスは残されている。あはははは、早く武器を抜かないか。その短剣だ。持っているならちゃんと使え。それとも私の剣が欲しいか。要るならやるぞ。何十本でも何百本でもくれてやる。だから俺を殺せ。ウケケ。ケケケケケケケ」
泣きながら笑いながら地獄王は命じた。エルレシア姫は美しい顔を蒼白に変え、震える手でなんとか腰の短剣を抜いた。
顔面を小刻みに震わせながら地獄王は言った。
「お嬢さん、いや違うな、お姫さん。あんたのように苦労知らずで幸せに育てられたような生き物が、私は憎くてたまらない。私の味わってきた苦痛のほんの一億分の一でもいいから、味わって欲しいものだ。だからこそ、あなたのような女性が選ばれるんだろうなあ。あ、俺が選んだんだったな。というか創ったんだ。いや違う、伝統がそうさせたんだ。伝統だ。伝統伝統。そうだ、伝統なんだ。紅蓮王もそうだった。きっとその前もそうだ」
地獄王のギラつく瞳に怯え、エルレシア姫は短剣を取り落とした。地獄王が異常な敏捷さで這って手を伸ばし、短剣を受け止めた。二十センチ以上伸びた舌でペロリと刃を舐める。
「どうぞお使い下さい」
地獄王は立ち上がり、姫に恭しく短剣を差し出した。
「も……申し訳、ありません」
エルレシア姫は恐る恐る短剣を受け取った。地獄王は大きく口を開けて笑った。下顎が自分のみぞおちにつくくらいに。
「あの……もう一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
彼女は狂気の地獄王に問うた。発作の波が過ぎたようで、姫の顔に少しだけ血の気が戻った。
「何かね。何ですか。どうぞご質問下さい。だから許して下さい。精一杯答えさせて頂きます」
顎を収め、泣きながら地獄王は頷く。
「あの、世界が、消えてしまいましたけれど、私があなたに殺されて、ゲームが終了すれば、また世界は元通りになるのですか。王国の皆さんもお父様も、復活なさるのでしょうか。ユアレ様にはそう教えて頂きました」
「ああ、大丈夫ですよ」
地獄王は優しく微笑んだ。まるで最愛の恋人に接するように。
「それが伝統ですから。ルールとしては国民の半数を殺すことになっていますが、まあ割合は適当ですな。殺すも生き返らせるも自由自在という訳です」
地獄王が自分の剣を投げ捨てた。両手を掲げ、掌をエルレシア姫に向ける。なめらかだった皮膚が泡立ち、無数の小さな突起が生じた。イボのように見えたそれは次第に形を整え色を得て、それぞれに目鼻をつけ始める。
それは、人間の顔だった。
数百もの人間の顔が、地獄王の掌でひしめいていた。
「私が世界だ。愛も狂気もここにある」
地獄王が笑顔で、誇らしげに、悲しげに、冷たく告げた。
全ての顔がエルレシア姫を見つめ、にっこりと微笑んだ。
「エルレシア姫様ー。僕らは生きてる。生きてるんだよー」
彼らが声を揃えてエルレシア姫に歌いかけた。虫の鳴くような小さな声だが、彼女の耳にはっきり届いた。
「お父様」
エルレシア姫は王冠を戴く父王の顔をその中に認めた。先程心配そうに娘を見送った王が、今は狂気の笑顔で娘を睨んでいる。
「エルレシアよ、お父さんはね、お前を愛しているのだよ。目一杯愛し過ぎちゃって、ずっと犯したいくらいに愛していたのだ。犯したかった。犯したかったあああっ」
それは紛れもないローソルド王の声音であったが彼の口調ではなかった。王の使う言葉ではなかった。
エルレシア姫の瞳が動揺から絶望へ変わるのを見届けて、両掌の数百人が一斉に歌い出した。
「犯したかった〜犯したかった〜エルレシア〜」
「ヒャハッ」
地獄王が突然甲高い笑い声を発し両掌を打ち合わせた。ビチュリと音がして、合わさった掌の間から赤い血が滴り落ちていく。
「ほら、皆死んだ」
眉を互い違いに上下させ、地獄王は嬉しそうに掌を広げてみせた。顔であったものは、無数の潰れた血豆のようになっていた。砂粒ほどの眼球が糸を引いて落ちる。
エルレシア姫はそれから目を背けようとした。地獄王が素早く動いて、姫の目の前に両掌をわざわざ突き出してみせた。
「エヒャヒャーッ。でも生き返る」
潰れた血豆が塞がってあっという間に元の状態に戻った。
「生き返った〜生き返った〜」
数百の顔が歌った。ローソルド王も一緒に歌っていた。
「でもまた死ぬ」
地獄王はまた手を打ち合わせた。また嫌な音がして全ての顔が潰れた。
「また生き返る」
顔達が再生して歌い始めた。だがその歌詞が分かる前にまた地獄王が手を打ち合わせた。
「死んだ」
手を離すとすぐに数百の顔が再生していく。
「生き返る。でも死んで……」
また手が合わされ顔達が潰れる。
「生き返る」
また再生する。
地獄王は、その創造と破壊の奇蹟を延々と繰り返してみせた。エルレシア姫は逃げることも出来ず、目を逸らすことも許されず、また発作がぶり返したらしく左手で胸を押さえ呼吸が荒くなり、苦しげに眉をひそめたその美貌から血の気が引いていく。
「死んで、生き返る。死んで、生き返る。死んで、生き返る。死んで、生き返る。死んで、生き返る。死んで、生き返る。死んで、生き返る。死んで、生き返る」
地獄王の動作が次第に早くなっていった。地獄王は顔の筋肉をメチャクチャに動かして喜びと悲しみと疲労と狂気と怒りと憎悪と憐れみを同時に表現しながら早口で喋り続け創造と破壊を繰り返し続けた。
「死んで、生き返る。死んで、生き返る。さあ早く刺せ。死んで生き返る、その短剣で刺してみろ、死んで生き返る、キャハーッ刺せっ、死んで生き返る何を固まっている死んで生き返るこら落とすな死んで生き返る早く剣を拾えそして刺せ死んで生き返るさあ刺せ死んで生き返る殺してママーッ死んで生き返る刺して下さいお願いします死んで生き返る刺さないと殺すぞ死んで生き返るさあ早く頼む俺を殺してくれ死んで生き返る早くやらないかこの売女めっ死んで生き返るお願いだもう疲れたんだ消えたいんだ死んで生き返る消えてなくなりたいんだ死んで生き返るさあ殺せええっ死んで生き返るっ」
心を決めた姫が両手で短剣を握り締め、慣れぬ動作で突き出した。決死の刃を地獄王は舌を出しながら両掌で挟み合わせて止めた。ブチュッとまた数百の顔が潰れ血が滴った。
「駄目だああオヒャアアアアッ」
地獄王が姫の手から血塗れの短剣を奪い取った。
その瞬間、地獄王の左胸から、細身の剣の切っ先が生えた。
地獄王の顔が、驚愕と、苦痛と、歓喜に、歪み破れた。
地獄王の背後に黒衣のベルリクがいた。ベルリクには首がなかった。右腕もなかった。しかし左手はしっかりと長剣を握り、円を描くように抉った。剣は貫いた心臓をズタズタにして背中を大きく裂いた。大量の血が噴き出していく。エルレシア姫の驚愕。
敷石の上に転がるベルリクの生首は、今も闇色の瞳で姫を見つめていた。
「馬鹿な……この……驚いた、神なのに……抉ったな……痛い……嬉しいぞ。さあ……」
地獄王が首を曲げて襲撃者を確認し、自分の足元にあるベルリクの生首を見た。左足を上げて踏み潰そうとする。
ベルリクの体が剣を振り下ろした。細身の刃が地獄王の右肩から入って肋骨と背骨を斜めに切断した。裂けた部分から上がベラリと浮き上がり、血の噴出は凄まじい勢いになった。太い血の流れは先へ行くにつれ虹のように色が分かれ空間に溶けていく。地獄王が内包していた膨大なエネルギーを、生き残った者が受け継ぐことになるのだろう。
急速に厚みを失いしぼんでいく地獄王の顔が、虚ろな声で言った。
「痛い、ありがとう、痛い、ありがとう痛いありがとう痛いありがとう痛いありがとう……いた……あり……」
このまま崩れ落ちるかと思われた地獄王の体が、急に膨張して弾け散った。
肉片も残らず、跡形もなく、地獄王は、消滅した。
「ベルリク様」
エルレシア姫がベルリクの生首を抱き上げた。ベルリクの瞼は力を失い、眠たげに落ち始めている。
それでも彼は言った。
「好きな、世界を創れ」
ベルリクの瞼が下りた。闇が閉じた。ベルリクの生首が塵になって崩れ始める。胴体も倒れ、同じように崩れていく。
泣いているエルレシア姫の腕の中で、ベルリクは消え去った。
何もない世界に、エルレシア姫は、独り、残された。
十四
神となったエルレシアがいつまで正気を保っていられたのか、ここに記すことは出来ない。