内臓の海

 

  1

 

 二十メートル四方のプール。

 中に満たされているのは、水ではない。

 中に満たされているのは、全て内臓だった。

 心臓、肝臓、胃、小腸、大腸、肺、腎臓・・・。たまに脳まである。

 全て人間の内臓だった。

 新鮮な内臓だ。

 防腐処理が、施してある。

 プール一杯に積まれている。

 その内臓のプールの真ん中に、僕は立っていた。

 僕の胸の辺りまで、内臓が埋まっていた。

 上を見上げる。

 高い天井。強い照明が、僕の目を射抜いた。

 横を見回す。

 プールの中には、十数人の男達がいた。

 僕を含め、皆素っ裸だ。

 満たされた内臓の温度は適度に調節されていて、僕らが凍えることはない。

 プールの外には、白い服を着た男達が内側を向いて立っている。

 プールの一辺につき四人、計十六人だ。

 般若の面を被っていて、表情は分からない。

 皆、手に警棒を握り、微動だにしない。気持ち悪いほど動かない。

 プールの縁から一メートルほどですぐに灰色の壁。ここはプールだけの部屋だった。窓もない。

 扉が一つだけある。いつも閉まっている。その向こうに何があるのか、僕は知らない。

 静かだった。

 ただベチャベチャと、耳障りな音だけが続いていた。

 満たされた内臓の上で、四肢をバタバタと動かして泳いでいる男がいた。

 『サバ夫』だった。

 彼は異常な元気良さで、内臓の海を泳ぎ続けている。

 『サバ夫』が休んでいるところを、僕は見たことがなかった。

「どうだい、『太郎』、調子は」

 『長老』が、内臓を掻き分けてこっちにやってきた。彼は最古参だそうだ。

「別に。大丈夫だ」

 僕は答えた。僕はいつの間にか、『太郎』ということになっていた。一体全体、誰が名付けたものやら。

「辛いのは最初だけさ。じきに慣れるよ」

 『長老』はにこやかに笑い、また内臓を掻き分けて戻っていった。

「慣れない者は死ぬだけさ。そう、生きていけない者は死ぬだけだ、死ぬだけ、死ぬだけ、死ぬだけ・・・」

 『長老』の呟きが静かなプール内に響いた。

 

 

  2

 

 時間が過ぎた。どれくらい過ぎたかは分からない。相変わらず照明は明るいし、相変わらず般若面達は微動だにしない。

 ただ、時間が過ぎたことは分かる。

 それは、腹が減ってきたからだ。

 ここでは、食料は支給されない。

 あるのは、内臓だけだ。

 プール一杯の、新鮮な、人間の、内臓だけだ。

 他の住民達は、手近な内臓を手に取り、食べ始めた。

 食べる人々には、何の躊躇も葛藤も見られなかった。

 ただ無表情に、黙々と、食べていた。

 『長老』が声をかけた。

「最初は肝臓がいいだろう。肝臓が一番食べやすい。他の内臓は肝臓に飽きてからでいい。肝臓、肝臓、かんぞうかんぞうかんぞう・・・」 

 僕は、目の前の肝臓を手に取ってみた。

 生温かい、赤レンガ色の塊。柔らかい。

 肝臓。

 人間の、生の、肝臓だ。

 僕は赤い塊を口へ運びかけ、また離し、また口へ近づけ、また離し、最初の一口が出来なくて、何度も何度も繰り返した。

「こんなもの食べられるわけねえじゃねえかよう」

 その時誰かが大声を上げた。

 僕と一緒に入れられた、『ネズミ』だった。

 半分泣き顔になっていた。

「助けてくれよう」

 『ネズミ』は、内臓に足を取られながらもプールの端に走り、プールから這い上がって、内臓の海から解放された。

 だがその自由は一瞬だった。

 近くに立っていた般若面の男が、持っていた警棒を『ネズミ』へ無造作に振り下ろしたのだ。

 『ネズミ』は悲鳴を上げた。

 打たれた腕が、妙なところでぐにゃりと垂れていた。骨が折れたようだった。

 般若面の男達が、『ネズミ』へと駆け寄っていった。

 彼らは何も言わずに『ネズミ』を滅多打ちにしていった。『ネズミ』の上げる悲鳴は、次第にか細くなっていった。

 三十秒後には、『ネズミ』はぐずぐずの肉塊と化していた。

 般若面の内の一人が、『ネズミ』の死体を引きずっていった。その時初めて部屋のただ一つの扉が開いた。扉の向こうは真っ暗で、何も見通せなかった。他の般若面達は元の位置へ戻っていった。

 般若面が『ネズミ』と共に闇の奥へ消え、すぐに自分だけ戻ってきた。扉が向こうから閉じられる。

 そして全てが元どおりになった。

 プールの住人達は終始無言だった。約半数が『ネズミ』の末路を見守っていたが、後の者はただ内臓を貪って飢えを満たしていた。

 僕は覚悟を決めていた。

 持っていた内臓を、口に運んだ。

 一口、噛み切った。プリッとした感触。

 その「味」が、僕の口の中に拡がっていった。

 僕は吐いてしまわないうちに、急いでそれを呑み込んだ。鼻で深呼吸を一つしてからなら、吐かずに呑み込める。

 それが僕の食道をゆっくり伝っていく感触と共に、僕の内部で何かが変わっていった。

 僕はここの住人になってしまったのだ。

 『サバ夫』はまだ泳いでいた。彼は『ネズミ』の断末魔の際にも泳ぎ続けていた。『サバ夫』は泳ぎながら食べていた。

 

 

  3

 

 『聖者』はまだ食べない。

 僕より一週間前に入れられたそうだ。

 彼はずっと耐えていた。自分の飢えと戦い続けていた。

「食べるくらいなら、死んだ方がましだ」

 『聖者』は言った。

「人間には、命よりも大事な、守らなければならないものがある筈だ。そうだろ」

 『聖者』の言葉を、誰も聞いていなかった。

 彼の頬はこけ、目は落ち窪んでいた。

 『サバ夫』はまだ泳いでいた。

 

 

  4

 

 『窓際族』が死んでいた。

 暫く姿を見ないと思っていたら、プールの底の方で内臓に埋もれて見つかった。

 窒息死だ。

「自殺かも知れないな。クク、ククク」

 『長老』が僕の横で囁いた。

 『サバ夫』はまだ泳いでいた。

 

 

  5

 

 新入りの『太陽』は、一人でキャッチボールをしている。

 心臓のキャッチボールだ。

「これはどうだ。見事受け止められるかな」

 プールの反対側に放り投げ、自分で内臓の海を渡って取りに行く。

「はは、簡単さ。今度は俺の番だ」

 自分で拾って、また投げる。

 異様にハイテンションで、延々と繰り返している。

 ある時、投げた心臓がプールの外に出た。

 プールの縁から三十センチもないところに転がっている。

「へへっ、すいませーん。ガラス割っちゃって」

 『太陽』は独り言を呟きながら心臓に手を伸ばした。

 その手を般若面がいきなり警棒で殴った。どうやら、体の一部分がプールからはみ出すことも許されないようだった。

「あげっ」

 『太陽』が叫んだ。腕が折れていた。

 それ以来、『太陽』はキャッチボールをやめ、人一倍陰気な男になった。

 『サバ夫』はまだ泳いでいた。

 

 

  6

 

 今日は、珍しく大部分の人がプールの中央に集まっていた。

 『長老』が言った。

「一週間に一度、天井が開いて新鮮な内臓が補充されるのさ。やっぱり新しい方が美味しいからね。『太郎』も行った方がいいぞ」

 僕は、そんな気にはなれなかった。

 『聖者』も、いつもの位置から動いていない。

 彼はかなり衰弱して、目ばかりギラギラさせていた。

 『やくざ』が他の人を押し退けた。

「お前らはもっと離れろ。俺が先に選ぶんだ」

 その時出し抜けに天井の一部が開き、大量の内臓が投下された。

 運悪く丁度真下にいた『レゲエ』は、待ちわびた新鮮な内臓に押し潰されて圧死した。誰も彼のことを気にかけず、新鮮な内臓を狂喜して漁り始めた。

 『やくざ』と『カミカゼ』が、一つの内臓を取り合って喧嘩を始めた。

「お前、俺に逆らう気か」

 『やくざ』が怒鳴った。

「特攻、トッコウ、突撃、トツゲキ」

 『カミカゼ』が叫んだ。彼は時々おかしくなるのだ。

 『やくざ』が『カミカゼ』を殴りつけた。

 『カミカゼ』が『やくざ』の手に噛みついた。

 『やくざ』が『カミカゼ』の目に、指を根元まで突っ込んだ。そのままぐりぐりと抉った。

 『カミカゼ』が、『やくざ』の首に噛みついた。頚動脈を食いちぎった。

 二人とも死んだ。

 

 

  7

 

 『サバ夫』は死んでいた。

 いつの間にか動かなくなって、死んでいた。

 

 

  8

 

 『学者』が狂った。

 手当たり次第に内臓を食い散らかしながら、意味不明な台詞を叫び回っている。

「どうして一足す一が二になるのか知ってるか。それは、一足す一は二だからだ。ハハハ。どうして世界が存在するのか知ってるか。それは、世界が存在するからだ。ハハ、ハハ。どうして人は生きているのか知ってるか。それは、人は生きているからだ。ハハハ、それだけだ。ハハハ、ハハハハ。それだけだ、それだけだ」

 皆、知らぬふりをしている。

「そうだ。内臓なんてないぞうだ。なんていい言葉だ。宇宙の真理だ。内臓なんてないぞう。内臓なんてないぞう。内臓なんてないぞう」

 ずっと言い続けている。

 

 

  9

 

 世界は、内臓で埋まっている。

 今日も人が死んだ。

 『モヒカン』と『東西南北』と『柳』だ。

 今日も人が入れられた。

 『狂犬』と『宇宙人』だ。

 弱い奴は死んでいく。ただそれだけだ。

 生き残っていく者達は、次第に喋らなくなり、皆同じような顔つきになっていく。いつまでも陽気なのは『長老』くらいだ。

 不思議だ。

 眩しい。

 あの照明を、誰か消してくれ。

 一時間でもいいんだ。

 誰か・・・。

 

 

  10

 

 『聖者』が、餓死寸前になって『転んだ』。

「うまい。うまい。うまい。ゲベベ。ゲベベベ」

 猛烈な勢いで内臓を食らうその姿は、餓鬼その物だった。

 今までの彼の崇高な行為は、全て無意味になった。

「ウグッ」

 突然、『聖者』は喉に内臓を詰らせて、死んだ。

 

 

  11

 

 『グルメ』が死んでいた。

 自分の腹を切り裂いて、自分の内臓に食らいついた格好のままで死んでいた。

 

 

  12

 

 『長老』が処分された。

 内臓を持たないサイボーグであることがばれたためだった。

 

 

  13

 

 僕はまだ、生きていた。

 これまで数限りない人達が、内臓のプールに入れられ、死体となって出ていった。

 だが僕は、まだ生きていた。

 肝臓だけではなく、色々な臓器も食えるようになった。

 内臓も、そう捨てたものでもない。くく、くくく。

 僕は、ずっと生き延びる積もりだ。

 この内臓の海で。

 内臓を食らうだけの毎日。

 ふっと、疑問が頭を掠める。

 僕は、何のために生きているのだろう。

 すぐに打ち消す。

 僕は生きている。それが全てだ。それ以外に何があるというのだ。くく、くひゃ、くひゃひゃ。

 僕は内臓に囲まれて暮らしている。

 内臓。内臓。内臓。内臓。内臓。内臓。内臓。内臓。

 僕の内臓は、生きるために他の内臓を要求する。

 人は内臓がないと生きていけないのだ。

 内臓はとっても大事だ。そうだろ。

 そう、内臓こそが真実、内臓は世界なのだ。くひゃひゃ、くひゃひゃひゃ。

 だから唱えよう。

 内臓はあるぞう。内臓はあるぞう。

 さあ、唱えよう。

 内臓はあるぞう。内臓はあるぞう。

 

 

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