「そろそろ目を開けたらどうだね」
赤い闇の中に、苛々した声が響く。
ここは取り調べ室、らしい。僕は椅子に座っている。正面に人の気配が二つ。彼らは警官だ。警官の筈だ。強い光が瞼を貫いて射し込んでくるが、僕は目を開けないでいる。うっかり開けてしまわないように、きつく閉じている。
「駄目です。あなた達は、僕の言うことを全然信じていないんですね」
僕はうんざりして言った。
「何度説明すれば分かってもらえるんですか。僕が目を開けた途端、セーカーが現れて僕は殺されるんだ。勿論あなた達も、殺される」
「だから大丈夫だと言ってるじゃないか。ここは警察署だよ。何も起きやしない。君の言う殺人鬼だって、自分からのこのこ警察までやってくるほど馬鹿じゃないだろう。万一来たとしても、我々がちゃんと捕まえてやる。信用しなさい」
「信用出来ません。セーカーは、あなた達の敵う相手じゃない。奴は、人間じゃない。生き物でもない。セーカーは、別の世界からやってきた化け物なんだ」
「いい加減にしろ」
とうとう、もう一人の警官が怒り出した。
「何十人も死んだんだぞ。ふざけてないで真面目に答えろ。そんなに目を開けるのが嫌なら、俺がこじ開けてやる」
僕は必死に両手で目を覆った。強い力が僕の腕を掴み、無理矢理に引き剥がそうとする。僕は必死に抵抗したが、頬を殴られ、瞼に警官の指が触れた。
「やめろ、どうしたんだ」
その時、別の場所から声がかかった。落ち着きのある、低い声だった。
警官の手がビクンと震え、すぐに離れた。
「志賀刑事。この目撃者が変なことばかり言って、こちらの質問にまともに答えようとしないんですよ」
僕も負けじと糾弾する。
「この人達が、僕の言うことを全然信じないんだ」
再び、志賀刑事と呼ばれた男の声がした。足音が近づいてくる。
「そうですか。ではお手数ですが、この人達にした話を、もう一度私にしてくれませんか。話の腰を折ったりはしませんから」
この人なら信じてくれるかもしれない。いや、どうせ普通の人間には理解出来ないことだ。
でも、声しか聞いていないけど、この志賀刑事という人は、何処か特別なところがあるような気がする。
「分かりました。もう一度最初から話します。僕がどういう人間なのか。そして、セーカーとは何者で、いつから僕につきまとうようになったのかを」
僕は、目を閉じたまま、話し始めた。
僕は夢を見るのが好きだ。自分は夢を見るためだけに生まれてきたのではないかと、時々そう思う。
僕は夢をよく見る。本当によく見る。一夜のうちに何度も見ることもある。そんな時は得した気分になる。
僕の見る夢は、現実と変わりない色がついている。夢が白黒の人がいるという話だが、気の毒なことだ。ただ、音は聞こえない。夢の中では聞こえているらしいのだが、それはイメージとして存在し、現実の音の感触は記憶に残っていない。
触覚は、ある時には鮮明にある。高いところから着地した時の足の裏の感触も確かだし、奴に腹を踏みつけられた時は、この世にこんな痛みが存在するのかと思うほどに痛かった。
味覚や嗅覚は滅多に感じない。でもそれは、現実の世界でもそんなに重要なものじゃないだろ。
だから、僕は夢の中で、殆ど現実と変わりない感覚を味わうことが出来る。
いや、現実以上といってもいい。
僕は色々な夢を見る。楽しい夢もあるが、怖い夢も見る。壮大な景色を旅することもあれば、日常と変わらない生活を送ることもある。川に潜む全長五十メートルの巨大ワニのために、洞窟の中で十年以上過ごさなければならなかったこともあるし、空を飛んで月まで行ったこともある。夢には様々な人物が登場する。家族だったり学校の知り合いだったり、或いは漫画の中のキャラクターだったりする。時にはとっくの昔に忘れてしまっていた人が夢に出てきたりして僕を驚かせることもある。そして、全く見知らぬ者も現れる。怪物も含めて。
夢の中で、僕は沢山の登場人物になり、また僕自身になり、生活し、走り、戦い、恐怖し、冒険した。単調で平凡な現実と違い、夢は遥かに豊かで、そして鮮烈だった。
そう、僕は、夢の中でこそ、本当に生きているのだと思う。
素晴らしい夢の時が過ぎ、やがて朝がやって来る。
大嫌いな朝が。
僕の一日の行動は決まっている。
際限なく喚き続ける目覚し時計を叩きつけるように止める。目覚ましは敵だ。こいつは容赦なく僕を急き立てる。
そのまま寝てしまいたい欲求をなんとか抑え、僕はのっそりと起き上がる。制服に着替えて階段を下り、洗面所で顔を洗って眠気を払うが眠気は払えない。
朝食はもう用意されている。僕は両親におはようの挨拶をして席につく。一つ上の姉は学校へ出発している。課外授業があるのだ。大学受験のための。
僕も、来年には姉のようにせかせかして勉強をしなくてはならなくなるのだろう。下らない、無意味な、呪わしい、勉強を。
父は目がゾンビのようになっている。昨夜も酒を飲んで遅く帰ってきたのだろう。
母はその頃てきぱきと僕の分の弁当を包んでいる。
「お父さん、食事の時には新聞は読まないで下さい」
母の疲れた文句。
「ん、ああ」
父はのろのろと新聞を下ろす。
いつもの会話だ。彼らは毎日、同じ会話を繰り返す。何百回も、何千回も。
後は誰も喋ることなく、泥のように濁った時間が過ぎていく。
「行ってきます」
僕は家を出て、仕方なく地下鉄の駅へと歩き出す。
ホームには、沢山の人々が列車を待っている。
誰もが同じように、眠そうな、不機嫌そうな顔をしている。
皆、人生が楽しくないのだろうか。僕は考える。
人生が楽しくないのに、何故生きているのだろう。
誰も人生が楽しくないのなら、何のために世界は存在するのだろう。
そういう僕も、人生が楽しくない一人だ。
列車が来る。僕らが乗り込む前から既にぎゅうぎゅう詰めになっている。僕はうんざりするけど、乗らない訳にはいかない。
僕が乗り込もうとすると、中年のおっさんに横から割り込まれる。全く、この糞野郎が。
鮨詰めにされていよいよ出荷という時になって、更に駄目押しの攻撃がやってくる。
今頃になって駆け足で階段を下りてくる奴だ。
若い背広のサラリーマン。照れ笑いを浮かべながら、閉まりかけた扉の間に腕を差し入れる。
僕はこんな奴らが大嫌いだ。遅れたくないのなら早目に来ればいいことだし、間に合わないと思ったら諦めて次の列車を待てばいいんだ。他人に迷惑をかけてまで乗ろうとするその根性が気に食わない。
挟んじまえ。咄嗟に僕はそう思う。
扉で、そいつの腕を挟んじまえ。
扉の動きが止まり、すぐに開く。男は急いで狭い車内に体を押し込む。
扉は閉まり、列車はゆっくりと進み始める。
そういえば、よく遅刻する夢を見る。僕の夢の中でも、最も嫌な部類に入るものだ。
寝坊した訳でもないのに、いつものように朝食を食べている間に、何故か時計は八時を過ぎている。
ホームルームは八時半にある。急がなければ間に合わない。
僕は朝食を残して、教科書を鞄に詰め込み始める。普通なら前日の夜に済ませていることを、何故か今朝になってやっている。
もう八時十分だ。どうしてこんなに時間の流れが速いんだろう。
いってきます。
大急ぎで家を出ようとして、体操服を忘れていることに気づく。今日は体育の授業があるんだった。
慌てて部屋に戻って探すが、見つからない。
時計は八時二十分。
焦る気持ちばかりが強くなり、まるで考えが浮かばない。
洗濯物の中に混じっていた。まだ洗濯されておらず、汗で湿ったままだ。
なんで洗濯しておいてくれなかったんだよう。文句を言っても、母は知らんふりだ。
八時三十分。今から行っても着く頃には、一時間目が始まっているだろう。
もう確実に遅刻だ。畜生。
遅刻したくなかった。勉強も学校も大嫌いだが、宿題を忘れたことはなかったし、遅刻したこともなかったのに。一度も。
家を出ようとすると、母が声をかけてくる。スーパーで豆腐を買ってきて。
僕は学校に行くんだよ。僕は怒鳴る。
家を出た時には、九時四十分になっている。
何故、何もしないうちに、無駄に一時間以上も経ってしまったのか。
僕は駅に向かって走る。思うようにうまく走れない。全くスピードが出ない。水中を歩いているような抵抗。
腕時計のアナログの針だけが、グルグルと凄いスピードで回っている。
それでも必死で走り続けるが、いつの間にか風景が変わっている。見知らぬ土地で、どっちに行けばいいのか分からない。
泣きそうな僕の前で、腕時計の針だけが無情に回っている。
学校は、駅から歩いて五分ほどの所にある。
同じクラスの友達を見かけ、軽く挨拶を交わす。でも並んで歩いて話したりはしない。別に話すこともないし、話したいとも思わない。同級生達が何故ああやたらと話をして笑っているのか僕には分からない。会話とは一体何なのだろうか。親愛の情を示すために話題を探しているのか、それとも情報交換のために会話が必要なのか。僕にはこのつまらない世界で知りたいことなど別にないし、わざわざあの馬鹿馬鹿しい輪の中に加わろうとは思わない。奴らは全く分かっていないのだ。
教室はもう席の半分ほどが埋まっている。
担任の先生が来てホームルームが始まる頃には、全員が遅刻せずに揃っている。
毎日、毎日、同じように。
単調で無意味な日常が繰り返されていく。
時に、その中に揺らぎが現れる。
例えば、この前の数学の時間のように。陰険で有名な川野先生の授業だ。
宿題だった問題のうちの一つを、前に出て解いてみせろと言う。
僕は一応はやっていたが、どうもこの問題には自信がなかった。でも誰も手助けはしてくれない。仕方なく僕は前に出て、黒板に解法を書いていく。考え考え、迷いながら。
これで大丈夫だろうか、でもこれ以上の答えは僕には考えられない、これでいいのかも知れない、いや何処か間違っているような気がする、でもどうすればいいのか分からない、誰も教えてはくれない、先生は何と言うだろう、良く出来たと言って欲しい、いや、全然駄目だと言うかも知れない、先生は……。
川野先生は、不機嫌そうに唇を歪めていた。僕は嫌な予感がした。
先生は何も言わなかった。良いとも悪いとも何も。
ただ、僕の書いた解答を、黒板消しで無造作に消してしまっただけだった。
「杉岡、やってみろ」
川野先生は別の生徒を指名した。僕の方には見向きもせず。僕は皆の前に立ったまま、顔を真っ赤に染める。
こんなつまらないことで何を恥ずかしがっているんだ。僕の心は冷め、体から急速に現実感が去っていく。こんな問題が解けたところで何になる。先生あんたは何も分かっていないのだ。あんたは世界の本質を知らない。あんたは……。
僕は無言で自分の席に戻る。クラスメイトは澄ました顔で僕を見ている。
授業によってはそんなこともあるが、大体は機械のようにノルマをこなし、そして放課後が訪れる。何がおきようと起きまいと、とにかく時は流れていく。
行きがけと同じようにぎゅうぎゅう詰めの列車に揺られ、立ち寄る場所もなく家に帰り着く。テレビを見て、夕飯を食べ、風呂に入って、やりたくもない宿題をやって寝る。僕の生活は、それだけだ。僕の表の世界での生活は。
なんとつまらない日常か。
僕は眠りにつく。
また明日という日がやってくることに怯えながら。
それまでは夢の中で見るであろう束の間の世界に心を躍らせながら。
僕は目を閉じる。
夢にルールがあることを知っているだろうか。
自分が『そうなるんじゃないか』と思った通りに展開する、ということ。
嫌な予感は全て的中する。
『こうなって欲しい』という望みは、その中に僅かでも不安や疑念があると達成しない。
それともう一つ。
恐いと思って逃げ回っている対象に、自分から勇気を出して立ち向かえば、案外と簡単に勝ててしまうものだということ。
怯える心自体が、相手に力を与える結果になっているんじゃないかと思う。
ただ、夢の中で逃げている間に、そのことを思い出す機会は滅多にない。
そろそろセーカーの話をしようと思う。
奴の名前を知ったのはつい最近のことだ。夢の中で突然思いついた。だからそれが奴の本当の名だ。
顔は今まで見たことがない。僕が知っているのは、奴が身長二メートル以上ある大男で、力が強く、破壊と殺戮の好きな、最強の殺人鬼だということだ。奴は頭が良く、思わぬ状況で登場して人を恐怖のどん底に叩き落とす。
奴は何年も前から僕の夢に出てきた。
当時有効であった、追われている時には空を飛んで逃げるという手段。その僕の足を掴んで引きずり下ろしたのが、奴だった。
家の中に逃げ込んで扉を閉め、いざ鍵をかける寸前になって、その怪力で扉をこじ開けてくるのも奴だった。
薄暗い映画館で、観客を殺し回りながら迫ってきたのも奴だ。
歩き疲れ、一晩の宿を求めて訪ねた屋敷。その玄関の扉の内側で待ち構えていたのが奴だ。
僕が押し入れに隠れたまま何ヶ月も過ごさなければならなかったのも奴のせいだ。
奴は何処にでも現れる。奴は必ず僕を追ってくる。奴には絶対に逆らえない。逃げるしかない。何故かは分からない。でも僕がそう思うのだから間違いない。
奴は、僕の夢の中で、絶対的な存在となっている。
昔は漠然とした存在だったセーカーは、僕が中学、高校と進むにつれて、次第に力を増してきたような気がする。楽しい夢の途中で、前触れもなくいきなり出てくるようになった。身長も伸びたみたいで、既に三メートルを越えているようだ。奴は僕の隠れている場所を正確に嗅ぎつけるようになった。奴はじりじりと僕を追い詰めて、それを楽しんでいるようだった。
そう、つまり、セーカーは、僕の夢の中の殺人鬼なのです。
おかしいですか。
現実の殺人のことを聞きたいのに、何を訳の分からんことを言っているんだ。そう思いますか。
僕は狂っていると思いますか。
でも、僕の話を最後まで聞いて欲しいのです。
あなたならきっと分かってくれる筈だ。
何故ならあなたは……。
それが恐い夢でも、覚めた後でも恐怖のため、しばらくは目が開けられないような恐い夢でも。
僕は、夢を見るのが好きだ。
朝は無情にやってくる。
またこの腐った現実の世界で、苦痛に満ちた一日を過ごさなければならないと思うとぞっとする。
僕は、現実の世界には何の希望も持っていない。
全く、現実の世界のこいつらは、何を下らないことをぐちゃぐちゃと話しているのだろう。
成績がどうたら、一流大学がどうたら、テレビゲームがどうたら、ロックグループがどうたら。全ては閉じた枠の中の話。
お前らは、全然気づいていない。
お前らは幻の世界の住民だということを。
何故ならこの世界は偽物だからだ。
真実の世界は、僕の夢の中にある。
お前らの言う現実と、夢との違いが、一体何処にあるというのか。
今、目の前で起こっている出来事が夢ではないと、誰が証明出来るというのか。誰かが証明してみせたところで、夢の中の人物の話を誰が信じるものか。
僕は断言する。夢と現実の区別なんて、絶対に出来ない。
だから僕は決めたのだ。皆の言う『現実』はただの幻で、僕の見る夢の方が本来の現実、つまり真実の世界だと。
だから僕はこの幻の世界に何も求めない。幻の世界の住人の言葉を信じない。お前らは存在しないにも等しい人間なのだ。
僕にとっては、夢こそが真実の世界だ。
僕は、夢を見るためだけに生きている。
夢だけが真実だ。夢だけが。夢……。
あれは二週間ほど前のことだ。
下校時、三人の男子生徒に呼び止められた。僕はそいつらに見覚えがあった。髪を染め、ピアスを入れた彼らは校内でも札付きの不良だった。暴走族の仲間だという噂だし、この間は先生を殴って警察沙汰寸前までいったこともある。
僕は嫌な予感がした。
そのうちの一人が、ニヤニヤしながら言った。
「今、金欠で弱ってんだ。金貸してくれねえか」
こいつらの『貸して』とは、『くれ』のことだ。
「お、お金は持ってないです」
本当は、二千円近く持っている。少し吃ってしまったのが自分でも情けなかった。
「嘘つけよ。なあ、貸してくれよ」
別の一人が馴れ馴れしく僕の肩に腕を回した。
「本当に持ってません」
僕は言った。近くをクラスメイトが通り過ぎていくが、助けてくれる者などいない。
「もし持ってたらどうすんだよ。全部もらうぞ」
その辺りから僕の感覚はおかしくなっていった。追い詰められた時に出てくるいつものあの感じだ。全身が生温いような鈍い感触に包まれ、視界がどんどん遠くなっていく。映画か何かを遠くから眺めているように、全てが他人事のように感じてくる。
現実感が、急速に失せていく。
もう僕は何も言わなかった。そして動かない。
「何だよこいつ」
僕は胸倉を掴まれた。顔を殴られた。そんなに痛くない。何発も殴られた。皆、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。腹を蹴られた。僕は地面に倒れた。更に駄目押しの蹴りを脇腹に入れられた。僕は呻き声も上げず、ただ転がっていた。無反応な僕に、薄気味悪くなったのだろうか、不良達の攻撃は止んだ。
「チェッ」
一人が唾を吐いた。それは僕の顔のすぐ近くの地面についた。
不良達が消えた後で、僕はゆっくりと起き上がる。
埃を払って、鞄を拾って家路につく。
顔がしつこく痛み出したのは、家に帰りついてからのことだった。
いや。
悔しくなんかないぞ。悔しくなんかないぞ。どうせこの糞みたいな世界でのことだ。お前らは何も分かっていないのだ。
悔しくなんかないぞ。僕は現実を捨てたのだ。僕の真実の世界は別にある。
どうせ、こんな、幻の、世界の、ことだ。
悔しくなんかないぞ。悔しくなんかないぞ。
くや、し、く……。
その夜、夢を見た。
校舎の屋上に、三人の不良達がいた。彼らはペチャクチャと楽しげに何か喋っている。
僕は、鉈を持っていた。
三人は、僕が近づいても全く気づかなかった。
僕が鉈を振り上げても。
一人の頭に渾身の力を込めて鉈を振り下ろした時、漸く彼らは気がついた。
鉈は意外に深く減り込んだ。頭が真っ二つになるほどに。そいつは手足をビクビクと痙攣させて倒れ、動かなくなった。
ざまあみろ。
他の二人は慌てて逃げ出した。僕は鉈をこじって引き抜くと、彼らを追った。下へと降りる階段への扉に鍵がかかっていることを、僕は知っていた。
隅に追い詰められた不良が、恐怖に歪んだ顔で僕を見ていた。その背後には鉄製の柵が、そいつの行く手を遮っていた。
僕は、最大限の憎しみを込めて、そいつの胸を蹴りつけた。柵が破れた。そいつは多分、悲鳴を上げていただろう。四階建ての校舎の屋上からそのまま落ちていく。
ざまあみろ。
僕は、残りの一人の始末に取りかかった。
そいつは震えていた。床に跪き、怯えた顔で助けを求めた。
許して下さい。お願いします。
勿論、僕は許さなかった。
すがりつくそいつの右腕を、僕は鉈の一振りで切り落とした。血が噴き出して、そいつは倒れた。
僕は続けて左腕を、そして両足を切断した。芋虫になったそいつの上にのしかかり、僕は泣き叫ぶそいつの腹に胸に鉈を振り下ろしていった。血が飛ぶ。
ざまあみろ。
ざまあみろ。
ついに動かなくなった不良の死体を、僕は立ち上がって見下ろしていた。
ざまあみろ。
その時、突然背後に巨大な気配を感じた。
セーカーだ。僕は直感した。高揚していた気分が、一気に恐怖へと変わっていた。
僕は振り向かず、そのまま走り出した。跳躍して柵を越え、空へと逃げようとする。
その僕の右足首を、セーカーが掴んだ。凄い力だ。僕は心臓が縮み上がるような思いをしながらも、必死にもがいた。靴が脱げ、セーカーの手から僕の足が抜けた。
僕は地面へと落ちていく。足から着地して、僕は走り出した。少しでも、セーカーから逃れるために。
不良達がそれぞれ自分の家で死んでいたことを知ったのは、翌日の夜、テレビのニュースでだった。
三人とも、いつまでも起きてこないので家族が様子を見にきて、ベッドで死体になっているのを発見したらしい。
一人は、重い刃物で頭を割られていたという。
一人は、全身の骨が折れていたという。まるで高い所から落ちたみたいに。
一人は、手足を切断され、胴体もズタズタに刺されていたそうだ。
それを知った時、僕の心の中に二つの感情が現れた。
喜びと、そして恐怖と。
その頃から、段々僕はおかしくなっていった。
周囲の景色が遠くなり、全身の感覚が鈍くなっていく。以前は追い詰められた時しか出なかったものが、それからはいつも、そんな状態になった。
現実から現実感が失せ、僕は薄れた五感で他人事の世界を眺めていた。自分の体も自分の意志で動かしているというより、誰かに動かされているのを横から見ているような感じだった。
同時に、セーカーが夢の中によく出てくるようになった。二週間前から毎日だ。いつもぎりぎりのところで僕は逃れているが、次第に奴は執拗に、僕に追いすがってくるようになった。夢の中で、僕は常に奴の影に怯えていた。
さて、昨夜の夢の話をしよう。
これは、今日起こった現実の出来事にとても関係がある話だ。
夢の中ではパーティーが行われていた。戦闘の後の慰労パーティーだ。中学校の時にあった工作室のような、広いが飾り気のない部屋。剥き出しのテーブルにはグラスが並び、皿には肉が置かれていた。数が足りなくて、一部には人肉を使っているらしい。
沢山の人が、楽しそうに語り合いながら飲み食いしていた。
僕もその中にいた。先ほどの戦いで、僕は自分の体を失っていた。新しく提供された肉体は中年の男のもので、僕は不満だったが仕方がない。
入り口の、チャイムが鳴った。
瞬時に僕は悟っていた。
奴だ。開けてはいけない。
僕は既に逃げることを考えていた。天井に穴が開いている。確か以前に全く同じことがあった。その時はここに隠れて助かった筈だ。
誰かがドアを開けてやった。
入ってきたのは、パーティーに遅れてきた普通の客達だった。
僕の勘違いだったか。僕はほっとした。
だがすぐにまたチャイムが鳴った。
今度こそ奴だ。僕は確信した。
開けるな。
こちらから開けない限り、奴は入ってこない。絶対に入ってこれない。
開けるな。
誰かが無謀にもドアを開けた。
僕はもうそっちを見てはいなかった。逃げることだけを考えていた。仲間のことなどどうでもいい。僕が逃げることだけを。
悲鳴が上がっていた。場内は騒然とし、パニックになっていた。
窓だ。
僕は閃いた。
この話では、窓から逃げることになっているんだ。全く同じことが前にもあった。だからそれが最善の方法だ。
僕は窓に駆け寄り、急いで開け、身を乗り出した。
顔を上げて、唖然とした。
窓があった。
窓の外側に、もう一つ窓があった。さっきまではそんなものはなかったのに。
新しい窓には、鉄格子が嵌まっていた。その狭い隙間からは、とても這い出せそうにない。
なんで。なんでこうなるんだ。
僕はそこから頭だけ出して、身動きが出来ずにいた。頭がどうしても抜けないのだ。
横を見ると、僕と同じようにして鉄格子から頭を出した人達が並んでいた。彼らも必死でもがいていた。
光が僕らの頬を打った。
見ると、建物の外側、僕らの右の方に、大男が立っていた。
セーカーだった。大きな斧を掲げて、悠然と立っていた。
初めてその顔が見えた。いや、顔に被った、表情のない白いマスクが。
あの仮面は……。
窓際にずらりと並んだ水道の蛇口が一斉に開き、凄い勢いで水の代わりに赤い血が噴き出し始めた。
天井にも赤い染みが拡がっていき、ポタポタと血が滴り落ちてくる。
部屋が、血で埋まっていく。
『彼らは、これから起こる凄惨な試練に耐えなければならない』
何処からかナレーションが入った。
それは、救いようのない試練だ。
僕らは、真っ青な顔をして、果物屋のスイカみたいに頭を並べていた。
セーカーが、斧を、振り上げた。
そして、今日の朝。
僕は地下鉄のホームで列車を待っていた。眠たい目を擦りながら。
毎日同じことの繰り返しだ。毎日。毎日。毎日。
ホームは人で埋まっている。到着した列車も、人で埋まっている。
それでも、皆、乗り込んでいく。僕も入る。更に後から後から入ってくる。
こんな生活は、もう嫌だ。僕は、何のために……。
そんなことを思いながら、扉が閉まるのを眺めていた時、バタバタと慌ただしい音がして、一人の男が階段を駆け下りてきた。照れ笑いを浮かべた、背広の青年。駆け込み乗車の常習犯だった。
男が扉の隙間に手を差し入れた時、いつもの思考が浮かんできた。挟んじまえ。扉で、そいつの腕を挟んじまえ。
扉が一瞬止まり、開きかけた。男は安心した顔になった。
その途端だった。
扉が凄い勢いで閉じていた。
男が悲鳴を上げた。
挟まれた腕が、列車の中にぼとりと落ちた。きれいに切断されていた。
僕の目の前だった。
男は血の噴き出す肩口を押え、呆然と尻餅をついていた。
扉に、べっとりと、血がついていた。
列車が、男を置いてゆっくりと進み出した。駅員はきっと慌てていることだろう。
列車は走り始めた。
車内に残された腕が、まだビクビクと動いていた。
乗客は悲鳴を上げて後じさり、僕の周りが少し広くなった。
僕は目を見開いたまま、床に転がる腕を見つめていた。
男の腕は、扉に挟まれて千切れたのではなかった。
僕は見たのだ。
振り下ろされた斧を。
朝の地下鉄の事件は、学校内でも話題になったが、二時間目が終わる頃には忘れ去られていた。僕は一番近くでそれを見た一人だったが、誰にも話さなかった。それよりも、嫌な予感がして、ずっと気になっていた。
でも授業は何事もなく進んでいき、いつもの単調な日常と何の変わりもなかった。
四時間目までは。
ここからが、あなた達が一番知りたかったことになる。
相変わらず、化学の浜田先生の退屈な授業が続いていた。
こんなことを習っていて何になるのだろう。僕はぼんやりと考えていた。いつになればこんなことから解放されるのだろうか。
こんな世界など、滅んでしまえばいいのに。
その時、教室内にチャイムの音が響いて、僕はギョッとした。
授業時間の終わりを示す、いつものチャイムではない。家の玄関にあるような、来訪者を示すチャイムの音だ。
「何だ」
先生が、きょとんとして教室の出入り口の戸を見た。
僕は気づいていた。
開けるな、奴だ。
セーカーだ。
開けるな。
出入り口近くの席の生徒が、立ち上がって戸を開けた。
「すみません、遅刻しました」
そう言って入ってきたのは、クラスメイトの原君だった。そういえば、彼はまだ来ていなかったな。珍しいことだ。僕は『思い出した』。
「こんな時間にか」
先生が眉を吊り上げて言った。皆、どっと笑った。
僕は笑わなかった。この先の展開が、分かっていたからだ。
「あのチャイムの音は、どうしたんだ」
先生が聞くと、原君も妙な表情を見せた。
「それがですね、変なんですけど。戸の真ん中に、ボタンが付いてたんです」
先生が怪訝な顔で、戸の裏側を覗き込んだ。
「本当だ。何だろう」
僕は、既に逃げることを考えていた。天井に僅かな隙間がある。でも天井裏に隠れる手はもう使えない。窓から逃げるのも……。
「まあいい。授業の続きをやるぞ。ええっと、何処まで話したっけな」
先生は戸を閉め、教壇に戻った。
すぐにまた、チャイムが鳴った。
今度こそ奴だ。僕は確信していた。
開けるな。
声が出ない。
先生が、少し怒ったような顔をして、つかつかと戸に歩み寄った。
開けるな。セーカーだ。
こちらから開けなければ、セーカーは入ってこない。絶対に入ってこれない。
「あ、開けるな」
僕はやっとのことで、しわがれた声を絞り出す。
だがもう遅かった。
「え、何だって」
先生は僕の方をちらりと見やりながら、無造作に戸を開けた。
その瞬間に先生の首が宙を飛んでいた。
大きな斧が、見えていた。
たった今先生の血を吸ったばかりの斧だ。
開いた戸の向こうに、巨大な体があった。
皆、何が起こったのか、理解出来ていないようだった。
数秒間の虚ろな沈黙の後、やっと悲鳴が上がった。
それを確かめると、のっそりと、セーカーが教室の中に入ってきた。あの白い仮面をつけていた。
大部分の生徒が立ち上がっていた。腰が抜けて立ち上がれない者もいた。どちらにしても結果に大した違いはない。次々と切断された首が飛んでいく。
僕は考えていた。窓から逃げるのは駄目だった。今度はどうすればいいのだろう。
誰かが叫んだ。
「窓から逃げろ」
この教室の出入り口は一つしかなかった。さっきまでは二つあったのかも知れないが、今はきっと一つしかない。
僕は、彼の愚かな提案を訂正しようとは思わなかった。自分のことだけで精一杯だ。お前ら糞共のことなど知ったことか。
何人かが窓の方へ走っていった。
セーカーが、僕の方へと近づいてきた。
僕は、目を閉じて、その場に蹲った。
僕には、分かっていた。
これが、最善の方法なのだ。
何故なら、セーカーは、相手が恐怖するのを楽しみながら殺すのだから。無言で迫ってくる姿を、振りかぶられる斧を見さえしなければ、セーカーは僕を殺すことは出来ない。絶対に、出来ない。
僕が、そう思っているのだから、絶対に、そうなのだ。
「なんで窓の外に窓が……」
「で、出られない」
驚きの声が聞こえてきた。その間も、断末魔の絶叫と、肉と骨を断つ無気味な音は続いている。
背中に、ポタポタと生温かいものが滴り落ちてきた。ぬるぬるした感触。
きっと、天井から血が滲み出しているのだろう。窓際には蛇口も出現したかも知れない。
でも大丈夫だ。
目を開けない限り、僕は大丈夫だ。
「助けて」
泣き叫ぶ声。
僕は、ずっと目を閉じていた。
目を閉じて、こうしていれば、絶対、安全だ。
目を閉じて、こうしていれば、絶対、安全だ。
悲鳴は途切れることなく続いた。
僕は血の海の中に浸っていた。
やがて、あらゆる生命の気配が消え、セーカーも去ったようだった。
でも僕は知っている。
僕が安心して目を開けると、斧を振り上げたセーカーが待ち構えているということを。
だから僕は、血溜りの中で、目を閉じたままずっと蹲っていた。
暫くして、警察の人達が駆けつけてきた。
それでも、僕は目を開けなかった。
警察署まで運ばれて、事情聴取を受けている間も、僕はずっと目を閉じている。
そう、それが今だ。
「僕の話を、理解出来ましたか」
僕は、志賀刑事に尋ねた。話している間に、僕の家で両親と姉が惨殺されていたという連絡が入ってきていた。それは、ある程度予想出来ていたことだった。
長い話に口を挟むことなく聞き入っていた志賀刑事は、どうやら納得してくれたらしかった。
「話は大体分かった。いいよ。君は目を開けなくていい」
「志賀さん、まさかこんなガキの話を信じるんですか。夢の中の殺人鬼が、現実の世界に飛び出したなんて」
警官の呆れ声が響いた。
「こんな頭のイカれたガキを。もしかすると、こいつが犯人なのかも知れませんよ。妙に落ち着いていますし」
「俺がいいと言ったらいいんだ」
志賀刑事は厳しい口調ではねつけたが、警官達はまだぶつくさ言っていた。
僕は、段々腹が立ってきた。
こいつらをギャフンと言わせてやりたい。怠惰な日常に慣れ切ったこの糞共を、恐怖に泣き叫ばせ、今までの態度を後悔させてやりたい。
それに僕も、このままでは一生目を閉じたまま生きていかなければならなくなる。そんなことが出来る筈もない。
よし、開けてやる。どうなろうと知ったことか。
いや、どうなるかは、もう分かっている。
「そんなに言うんなら、目を開けてやりますよ。あなた方は、覚悟はいいですか」
「ああ、いいよ」
警官達は笑った。志賀刑事は黙っている。
「その前に一つ言っておきます。あんたらは分かってないんだ」
僕は言ってやった。
「あんたらは疑問を感じなかったのか。大量殺人現場で血塗れになって蹲っていた生き残りの僕が、何故病院じゃなくてそのまま警察の取り調べ室に連れてこられたのか。……。それは、僕がそうなると思っていたからだ。あんたらは既に、僕の夢に取り込まれてしまっているんだよ」
「な……」
僅かながらも、警官達の動揺する気配が伝わってきた。
だがもう遅い。
僕は、ゆっくりと、目を開けた。
殺風景な取り調べ室。僕の目の前に、にやけた顔の二人の警官が立っている。その後ろに、奇妙な目つきをした私服の刑事。
それだけだ。
警官の一人が勝ち誇ったように言った。
「ほら、何も起きないだろ」
僕は警官の背後を見ていた。
志賀刑事を。
刑事の顔が、音もなく縦にピシリと割れた。
刑事の体を内側から突き破って、セーカーが現れた。三メートル近い巨体、白い仮面、大きな斧。刑事の殻は、ペラペラになって床に落ちる。
僕には分かっていた。
志賀刑事がセーカーであったことを。
僕は言った。
「後ろを見ろ」
警官達が振り向いた。
その表情が凍りついた。
片方の警官の首が飛んだ。
もう一人は腰を抜かし、尻で後じさりながら震え声で、
「た、助け
斜めに振り下ろされた斧は、警官の胸板を突き破って、背中まで抜けていた。
セーカーは、無造作に斧を引き抜いた。警官は、二、三度、痙攣した後、すぐに動かなくなった。
仮面の奥の目が、僕を見つめていた。
これからどうなるのか。
セーカーの手が上がり、ゆっくりとその仮面を外していく。
僕には分かっていた。
僕の顔だった。
どす黒く憎悪に歪んだ笑み。それでいてガラス玉のように無感情な瞳。
僕の顔だった。僕の裏側の顔。深いところに封じ込め、押さえ込んでいた、僕の本当の顔。
白い仮面が床に落ちて乾いた音を立てた。
あの仮面。
小学校の図画工作の授業で作った、紙粘土の仮面。面倒臭いので着色しなかった仮面。
あれは、僕が作ったものだったのだ。
僕には分かっていた。
セーカーは、今から、僕を殺す。
その後は、街に出て、人を殺し回るだろう。セーカーは不死身だ。何故なら、僕がそう信じているから。糞のような人類が一人残らず死に絶え、この下らない世界が滅び去るその時まで、セーカーは斧を振るい続けるだろう。
はは。
はははは。
僕は無性に可笑しくなってきた。
セーカーは、ゆっくりと斧を振り上げた。
僕はそれを待ち遠しい思いで見つめていた。
セーカーが、斧を振
僕は雪原を飛んでいた。彼方に僕達が泊まっているホテルが見えてきた。入り口に置き去りにされているのは僕の自転車だ。片づけておかなければ。
学校の地下百階には、魔物が棲んでいる。茶色の肌を持った四匹が要注意だ。
広い部屋は全てプールだ。浅いプールだが、無数のワニがいる。真ん中にかけられた細い橋を、僕は渡っていかねばならない。
数々の罠を突破して僕達は怪物の部屋へと辿り着いた。でも仲間に裏切り者がいて、大乱戦となる。マッチ箱。
吸血鬼に追われて僕はマンホールの中へと逃げ込んだ。マンホールには水が溜まっている。
窓の奥に、白い服を着た女が立っている。僕は彼女をライフルで……。
緑色の巨大な沼。何が潜んでいるか分からない。もっと飛行高度を上げろ。少しずつ下がってきているぞ。
家の人達が狂った。僕はさりげなく出て行こうとする。いつも逃げるルートを通って空に逃げると、父親が追ってきた。父親の吐いた唾は強酸だ。
家に熊が出た。僕は戸棚の上に逃げている。熊が眠っている隙に、僕はその頭と首にアイスピックを何度も突き立てた。
荒廃した世界を僕は旅していた。十年ぶりくらいで我が家に帰り着く。家族は今も生きているだろうか。僕は切ない思いで玄関の呼び鈴を鳴らす。
電気ノコギリ。帽子に取りつけられたその異様な機械は、被った者の頭を真っ二つにするように出来ている。それを持って追いかけてくる女に、僕は逆に被せてやった。ギロチンもあるよ。
地下の薄暗い迷宮。灰色の壁。濁った水。落ちていく。
無数の夢。
無数のイメージ。
それは全て……
目覚し時計が鳴っていた。
僕は布団の中で目を覚ました。
部屋の窓から朝の光が差し込んでいる。
全ては夢だったのだ。僕は思った。何故か、僕は少しほっとしていた。
先生もクラスメイトも、誰一人死んでいない。両親も、姉も、無事に生きている。
そう、世界は変わらない。何の変哲もない単調な一日が、また始まっただけの話だ。
それにしても、セーカーは残念なことをした。折角、僕の望み通りの展開に……。僕は夢を思い出しながら苦笑した。
その時になって、僕は、自分が涙を流していることに気づいた。何が悲しいのか、自分でもよく分からない。
いや、僕には、分かっていた。
本当はこちらの方がゆ
り下ろした。
僕の脳天に減り込んだ斧の感触は、久しぶりに鮮烈な現実感を持っていた。