一
血みどろの夢を見ていたら何かに引っ張られた。
フィロスは最初、それも夢かと思った。夢と半ば自覚しながら、数多の強敵達と斬ったり斬られたり殺したり殺されたりしていたのだ。鎬を削る接近戦で服を掴まれ引っ張られてもおかしくなかった。
一万数千枚の刃をぶち込んでも泣き笑いの顔で歩み寄る『彼』がいた。対峙したと思った時にはフィロスの頭に剣をめり込ませている『剣神』ネスタ・グラウドがいた。斬っても斬っても削り落とした肉片で大地を埋め尽くしても『不死者』グラン・ジーは瞬時に再生し、平然とこちらを見返すその瞳がフィロスへの攻撃だった。致命傷にならぬぎりぎりで刃を受け、血塗れの傷だらけでニヘラニヘラと笑う『サドマゾ』ディクテールがいた。『鋼の男』ディンゴはチェーンソードをぶん回し不敵な笑みを浮かべていたが本命が左手の短剣であることは分かっていた。『針一本』裏鋭は理不尽な機動で刃を避けながらニュルリと滑り寄ってきた。『ダブル・フェイス』サマルキアズは冷たく凍る結界でフィロスを縛りつけ、槍のような長柄の剣をゆっくりと振りかざした。『隻眼影』ルーンが隠れていた亜空間からゼロ・ガンの銃身を生やし、どんな遠距離にもノータイムで着弾させるその銃口は正確にフィロスの額を狙っていた。『泣き男』レンはただただ圧倒的な我力を込めて剣を振り下ろし、フィロスのサーベルを叩き切った。
来い。来い。好敵手達よ。
殺す。殺す。残らず切り刻み、殺してやる。
楽しい。楽しい。殺し合いが楽しい。殺したり、殺されたりが、楽しくてたまらない。
もっと。もっとだ。我の心を震えさせよ。
緊張感にヒリつくような、不安と期待にゾクゾクするような、絶望の中に一筋の光明を見出しそれを叩き潰されるような、血みどろの戦いを、欲しているのだ。
夢の中で何度も殺し、殺される。実際の過去の記憶も微妙に混じっていた。結末が記憶と変わったりした。何人もに一度にかかられて嬉しい悲鳴を上げたりもした。『彼』とネスタ・グラウドがタッグを組んできてフィロスは笑ってしまった。いつの間にかこちらの相棒にディンゴがいた。いいじゃないか。混じる。混じる。殺し合う。何百回、何千回とやり合ってきたので勝ち負けはどうでも良いのだ。いやどうでも良くないのだ。
勝ちたい。勝ちたい。負けたら悔しい。勝ったら嬉しい。勝ちたい。勝つ。負ける。殺す。殺される。勝つ。
そんな、ドロドロの光景を、夢うつつに見ていたのだ。
マントの裾を掴んで引っ張っていたのは、ルーンだった。僅かな力、だがそれでディンゴを斬る筈だった刃が逸れてしまう。意識を向けた瞬間にルーンは亜空間へ消える。おのれ。楽しい。
『大剃刀』シド・カイレスが全身をエネルギー剣で包んで特攻してきた。攻撃は凄まじいが防御が隙だらけという極端な男だ。これは半端に防ごうとすると死ぬ。全力で迎撃しようとしてまたマントの裾を引っ張られた。
それで、フィロスは気づいた。引っ張られているのは現実ではないか、ということに。
ゾワワワワワッ、と来た。何億年、いや何十億年ぶりかに感じる本物の恐怖。一気に意識が覚醒する。馬鹿な、いや、まさか……。
目を開けて振り返ると小さな顔がフィロスを見上げていた。
四、五才くらいの幼児だった。女児。カイストではない、一般人。手作りらしい粗末な服。武器は何も持っていない。
フィロスは信じられなかった。確かに自分は眠っていたが、敵が近づいたら瞬時に目覚める筈だ。ここまで接近され、触れられるなどあり得ない。『蜘蛛男』フロウなら忍び寄れるだろうが……いや、ここ数十億年はぎりぎりで感じ取れるようになっていた。少なくとも、腕が握る剣の間合い……ブレード・エリアに入ってこられれば分かる。
なのに何故、この一般人の幼女に気づかなかったのか。殺気がなくても生き物が近づけば分かる。生き物でなくただの物体でも気づく。必ず目が覚めるし体が自然に反応する。実はこいつは幼女の姿をしたカイストで、隠形がフロウよりも長けているとかいやそんな筈はない。目の前の幼女は確かに一般人の、特殊な能力を持たない、見た目通りのただの、子供だった。
それが、二度も引っ張られるまで、完全に、気づかなかったのだ。
こんなことはあってはならない。あってはならない筈なのに……。フィロスは眩暈を覚える。
「かみさまは、かみさまでしょー」
幼女はおかしな言い回しでフィロスに問いかけてきた。フィロスが神様なのかと聞きたいようだ。その態度に不安や恐怖は皆無だった。
「それは……時に神扱いされることも、あるが……」
戸惑いながらもフィロスは答える。ただし邪神や疫病神として、と続く筈が幼女の笑顔に遮られた。
「やっぱりかみさまだった。えへへー」
ニパー、という擬態語が似合いそうな、満面の笑みだった。
何だ、これは。まだ夢の中にいるのではないのか。ただの一般人の子供が、気づかれずにフィロスに触れ、しかもフィロスを恐れていないというのは、おかしいではないか。
だがこれは現実だ。あってはならないことが現実に起きたということは……。
フィロスは、負けたのだ。
殺し合いではないが、確かに敗北したのだ。
ツイツイ、と幼女がまたマントの裾を引っ張ってきた。
「来て、村。おうちおうち」
負けたのであるならば、従わねばならないだろう。フィロスは「うむ」と頷きついていく。
湖畔の柔らかい草地を幼女が先導する。勢いに短い足はついていけず、微妙にバランスが悪い。しかもマントの裾をまだ離してくれなかった。
この近くに人の住む集落があることは昨日のうちに気づいていたが、食指が動かなかったので放置していたのだった。自他共に認める『息をするように人を殺す』フィロスであるが、今は満たされていたし、疲れてもいたのだ。
七年前、『邪眼』カイルズ、『無刀』ジネン、『岩ミミズ』ギザ・ミード……シュクムバーズグの三人を同時に相手にして打ち勝ったのだから。彼らは殲滅機関とも呼ばれるたった八人のグループだが、全員がゴールデンマーク……カイスト・チャートで常時百位以内をキープしている異能の強者達だ。流石のフィロスも相当のダメージを負い、七年程度では殆ど回復していない。刃の三割と右目と右腕を失い、背骨にもヒビが入ったままだ。今でも断続的にぶり返す痛みが心地良い勝利の余韻として残っている。首領の『ダブル・フェイス』サマルキアズから、フィロスが完治した折には一対一で立ち合いたいという内容の手紙を貰ったことも、喜びを倍加させていた。
結局のところ、一般人的な表現を使うと、フィロスは勝利のために『酔っ払っていた』のかも知れない。そのせいで注意力が鈍っていたのかも。或いは、傷のせいで弱っていたのかも。
いや。それが違うことはフィロスも分かっている。フィロスは、戦える状態だった。同格相手にもまともに戦えるコンディションをキープ出来ていた。
ということは、やはり、負けたのだ。その事実を認めなければならなかった。
ここはフリーゾーンのミシュタム。宇宙型の世界で、現在人が生息している惑星は三十一らしい。そのうち最も若い惑星がこのエトマフで、他の世界へのゲートも近くになくガルーサ・ネットの出張所もない。エトマフの人口は六千万程度ということだから転生によってカイストはいるだろうが、わざわざ外部からここを訪れるカイストはいそうにない。そんな僻地だ。
フィロスは勝利に酔ったまま真空の宇宙を加速歩行でさまよい、たまたま見かけた生物のいる惑星に漂着し、敵のいない平和な風景を眺めながら湖のそばでうつらうつらしていた、ということになる。
フィロスを引っ張っていた幼女は突然立ち止まった。まだ村には着いていないのに、どうしたのか。敗北感に打ちのめされているフィロスが混乱しつつ見守っていると、幼女は振り向いて言った。
「わたしねー、ロロカっていうのー」
「そ、そうか。我はフィロスだ」
「かみさまって、かみさまじゃないのー」
ロロカという幼女は首をかしげる。「神様」と「フィロス」を同じ名前として捉えているようだ。
「神とは大きな力を持つ存在の総称で、個人名とは……」
説明しかけたのだが、ロロカはさっさと歩みを再開してしまった。マントをグイグイ引っ張るので、妙に抵抗して彼女を転ばせてしまわぬよう、フィロスは力加減に気を配る。
湖畔を離れ細い川の横を歩く。行く先にある村の人口を正確に把握する。ロロカを含めて百二十二人。一人は衰弱して死にかけているようだ。それから大型の家畜が数頭。
幼女は村までフィロスを引っ張ってきて何をさせたいのか。まさか、死にかけの村人を治してくれとは言わないだろうな。神様なのだから出来るだろうと。それは……困る。フィロスは殺すのは得意だが、他人の治療などやったこともない。ガルーサ・ネットが売っている簡易医療キットも携帯していなかった。道具に頼れば自身の治癒力が衰えるし、そもそも強敵を相手にして負った傷にあんなものは役に立たないのだ。
村は低い木の柵が申し訳程度に敷地を囲っているだけで、門も見張りの櫓もない。外敵はあまりいないようだ。
やはり、まずいな。嫌な予感が強くなってきた。村にとって脅威となる敵がいて、それを討伐してくれという頼み事であれば簡単だ。それはもう幾らでも殺戮してやれる。この村の住人以外の人類を絶滅させることだって出来る。だが、どうも、討伐が必要な雰囲気ではなさそうな……。
畑をいじっていた中年の男がこちらを見て腰を抜かしていた。小さな家屋から顔を出した女もヒッと細い悲鳴を上げて尻餅をつく。特に威圧しているつもりはないのだが、二百七十五億年に亘り殺戮のための殺戮を繰り返してきたフィロスは、周囲の生き物に本能的な死の危険を感じさせてしまうのだった。
そう、これが普通の一般人の反応だ。なのにこの幼女は……。
当の幼女は相変わらずマントを掴んだままどんどん進む。痩せた畑の横を過ぎ、粗末な家の前で幼女は停止した。
「ママー、ママーッ。かみさまいたよー」
扉が開いて女が現れたが目を見開いたまま硬直した。父親らしき者が向こうの畑から歩いてきてやはり凍りついた。
漂わせている死の気配を別にしても、フィロスの異形は他人を怯ませるのに充分なものだ。極端に細い顔に薄い唇。今は片方潰れているが、常人の倍の大きさがある目は眼窩から半ばはみ出している。赤い髪が所々跳ねているのは頭部への攻撃を感知するためでもあった。薄汚れた真紅のマントの隙間から、古い血のこびりついた銀色の胴が覗く。一万枚以上の刃をパズルのように重ね合わせたもの。それぞれが背骨と細い針金で繋がっており、自在に伸び動いて数百メートルの範囲を切り刻むことが出来る。失った数千枚がまだ回復していないためパズルに欠けが多く凸凹になっている。フィロスの胴、腰から上にあるのは背骨と肩の骨とこの無数の刃だけだ。生存に必要な内臓は小型化され首の中に収まっている。今は右腕もないのでマントを羽織る上半身のシルエットはいびつな形をしていた。
そんな化け物を捕まえて、幼女は嬉しそうに改めて母親に言った。
「ママー、かみさまきたよ。かみさまがいたらいいのにって、ママいってたよねー。だからかみさまつれてきたよー」
幼女が喋るうちに母親の顔はみるみる白くなっていった。フィロスがちょっと身じろぎしただけでも心臓発作を起こして死んでしまいそうだ。神様を願っていたらうちの娘はなんてものを連れてきたのだ、という思考がフィロスには容易に想像出来た。
「案ずるな」
ロロカの両親をショック死させないよう、声音になるべく優しさのような何かを込めようとしたが、フィロスは元々優しさというものを持ち合わせていなかったのでうまくいかなかった。だがまあ、そんなに恐ろしい声音ではなかった筈だ。
「望まれたから来たのだ。願いを言うが良い。我に出来ることならやってやろう」
母親は瞬きを忘れたままだが循環機能は少しずつ安定に向かっていた。父親が手足を震わせながらなんとか近づいてくる。
「ほ、本当に、神様で、いらっしゃるのですね」
母親が掠れ声で確認すると、フィロスの代わりに「そうだよー」と幼女が答える。
「そ、それでしたら、どうかお助け下さい。私達の村は、このままでは滅ぶしかないのです」
母親はその場に土下座して訴えてきた。そこに父親も並んで土下座する。
さあ、何だ。討伐の依頼であってくれ。厄介な化け物が近くをうろついているとか。この近辺に強い生き物の気配はなかったのだが。或いは悪徳な領主を殺して欲しいとか。そういう願いであってくれ。
「冷害で作物が腐ってしまい、今年の収穫が殆ど期待出来ません。このままでは冬も越せずに皆飢え死にしてしまいます。神様、どうかこのワユタの村をお救い下さい」
ああ、いかん。フィロスにとっては完全な不得意分野だった。
これは、まずいぞ。
幼女はニコニコしてフィロスを見上げている。物凄く期待している顔だ。フィロスが願いを叶えてくれることを欠片も疑っていない顔だ。
まさかこんなことで、冷や汗を掻くことになろうとは、流石のフィロスも予想していなかった。
二
勝手に一人で村の外へ出たことをロロカは母親に叱られていた。フィロスは自分と幼女とその母親の力関係に妙な感慨を抱いたりした。それはまあ、ともかくとして。
フィロスは頑張った。
ガルーサ・ネットのデータベースを漁って農業のノウハウを仕入れた。優良な作物の種や高級農機具などは入手出来ないので、フィロスは地道に畑の土を整え、水路を引き直し、疫病にかかった作物を処分した。当座をしのぐため食肉用に周辺の鳥獣を狩り、燻製も作らせた。
今は夏の終わりで、この時期から育てられる作物を入手する必要があった。データベースにもエトマフの植物についての情報は多くなく、近くの森で使えそうなものを幾つか採集した以外は都市へ買い出しに行くこととなった。費用はフィロスの自腹だ。
村人に都市の場所を聞き、加速歩行で日帰りするつもりだったのだがロロカがついていくと言い出した。断ると泣きそうな顔になるので仕方なく背負子に乗せて連れていく。両親は非常に恐縮していた。娘をフィロスに預けることが不安だったようだが口に出す勇気を彼らは持たなかった。
フィロスは揺れの少ない程々の速度で街道を進む。獰猛な獣も野盗もなく、随分と平和な土地だ。流れる景色に背中の幼女ははしゃいでいた。
予想では片道五時間かかる。太陽が中天に達するまで待つつもりだったが、幼女の腹が鳴り出したので休憩して昼食にする。母親が持たせた弁当で、二人分あったがフィロスには当分栄養摂取は必要なかった。
「あーん」
幼女はフォークで突き刺した肉団子を差し出して、フィロスの口に入れようとする。
「要らぬ。全てそなたが食べれば良い」
フィロスが首を振るとまた彼女は泣きそうな顔になる。仕方なく口を開けるのだが、幼女はニコニコして「あーん」と繰り返す。フィロスにも言わせたいらしい。
「あ、あーん」
フィロスが間抜けな台詞を発すると幼女は早速肉団子を突っ込んできた。
「かみさま、おいしーい」
「う、うむ。美味しいぞ」
素朴な味だった。必要とあれば虫でも人肉でも平気で食べるフィロスにとっては、上等な品ではある。だから美味しいというのも嘘ではないのだ。
それにしても、幼女の掌の上で転がされているな。敗北感と屈辱感でフィロスの心は滅多打ちだった。しかし敗者に権利はない。弄ばれるしかないのだ。
弁当を食べ終え、ロロカを背負子に乗せてフィロスは出発する。幼女は眠くなってきたようだ。動きが少なくなる。
背負子の揺れを抑えて進みながら、ふと思いついてフィロスは尋ねてみる。
「ロロカよ。そなたは何故我を神だと思ったのだ」
「んー。だって、かみさまぽかったんだもん」
うむ、答えになっていない。
「我が恐くはなかったのか」
重ねて尋ねたが返事はなかった。軽い寝息が聞こえてくる。ほんの数秒で寝てしまったようだ。
何なのだ。フィロスは納得いかないまま静かに駆けた。
都市の人口は一万弱というところだった。フィロスを見て腰を抜かす門衛に道を尋ね、幾つかの商店で必要物資を調達した。支払いには地金と宝石を両替した。カイストはこんな時のために現地で換金可能な品を携帯しているものだ。フィロスも欲しいものがあればちゃんと金を払って買う。殺した相手の持ち物を戦利品にすることはあるが、まあ、それはそれだ。
四百キログラム程度になった荷物を刃の針金でコンパクトにまとめる。その頃にはロロカも起きてしまい、勝者の要求によって街並みを見て回ることになった。
都市は初めてだそうで、凄い凄いとはしゃぐ幼女に、フィロスはまた早く寝ついてくれないだろうかと考えていた。
屋台で串焼きを買い、串を抜いて食べさせていると幼女がウトウトし始めたのでフィロスは安堵した。ついに寝入った幼女を背負子に乗せ、荷物は片手で持ち上げたままフィロスは都市を出た。人々の恐怖の視線を浴びながら、結局誰も殺さずに。
一瞬、証拠隠滅のため都市の住人を皆殺しにしようかと思ったが、そういうことは恥の上塗りになるだけだ。
村に帰り着いたのは真夜中で、ロロカはぐっすりと眠っていた。
それからのフィロスの働きも地味なものだった。畑を耕して肥料を混ぜて種を蒔いて、ついでに害獣を防ぐための柵も作ってやった。土地に適した作物の選択や育て方などの農業知識も村人に伝授した。データベースからの受け売りではあったが。
彼らは『神様』に、奇跡のような解決を期待していたのだろう。努力もなしに素晴らしい恩恵が得られて、村が安泰となるような。だからフィロスの講義を恐々として受ける彼らの顔には、僅かながら失望も潜んでいた。
だがフィロスには村人の期待など、どうでも良いことだった。フィロスが期待に応えるべきは、ただ一人であったのだから。
それは果たされた。村は十倍も豊かになった訳ではないが、ひとまず借金せず領主に税が払え、餓死せず冬を越せるだけの食糧も蓄えられた。フィロスが伝えた農業知識を活用すれば、来年からの収穫もそれなりに改善するだろう。
村人の顔は明るくなり、それによってロロカの笑顔も益々増えていった。
充分だろう。駄目押しとばかりに悪性腫瘍だった老人の手術を済ませ、フィロスは思った。転移が少なかったのでうまく抉り取ることが出来たが、手術に使った刃が無数の人の血と怨嗟を吸っていることは黙っていた。これでもう二、三年くらいは生きていられるのではないか。事故に遭ったり、何者かに殺されたりしない限り。
「そろそろ良いだろう。そなたの願いは果たされたと思うが」
「かみさま、かえっちゃうの」
いつまでもいろと言われたらどうしようかと思ったが、幼女はすんなりと受け入れてくれた。
「そっかー。かみさまばいばーい」
「さらばだ」
多少慣れて怯える程度の軽くなった村人達は、感謝の土下座をして見送った。フィロスは逃げるようにワユタ村を立ち去った。幼女は最後まで元気良く手を振っていた。
殺す以外の仕事に苦手意識が強かったが、やってみればなんとかなるものだ。フィロスは少しばかり感慨を抱いた。妙な充足感があった。
しかし、解決していないことがある。フィロスにとって、とてもとても、大きな問題だった。
三
あれから二百年を経て、フィロスは『裏の目』ガリデュエに依頼を出した。相手の都合がついたのがその二十四年後だった。
『検証士の双璧の黒い方』『裏側を知る男』『改変師』などとも呼ばれるAクラスの検証士。フィロスであっても相対する時には得体の知れない不安を覚えざるを得ない怪物だった。
検証士は物や場所に染みついた痕跡から過去の出来事を読み取る能力者達だ。出立のきっかけは考古学や歴史学、鑑識学、真偽鑑定術、探偵業、諜報職、そしてゴシップ趣味であったものが、最終的には世界のあらゆる秘密を暴き立て、特定のフォーマットに沿った膨大な資料を作り上げている。誰が何を言った・言わない、誰が裏で糸を引いた、果たし合いでどちらがどのようにして勝ったなどの問題を彼らは検証し、お墨付きを与える。依頼されて働くこともあれば、興味を持ったことを勝手に調べて勝手に公表することもあるし、公表しないこともある。
『検証士の双璧の白い方』とも呼ばれる『図書館長』ルクナス率いる世界図書館は検証士の一大組織だが、彼らは検証士の役割を歴史の記録係と定義し、イベントに登場人物として参加することを避ける傾向がある。彼らは祭りの後にひっそりと現場を訪れ、出来る限り客観的で正確な情報抽出に努める。集めた情報は特別なものを除いて一般のカイストでも閲覧可能としている。
逆に『裏の目』ガリデュエは秘密を楽しむ。古過ぎて痕跡が風化しつつある情報、或いは風化するまで魔術で隠蔽されている情報、人の心の奥底に潜む揺らぎを検証士最高峰の能力で勝手に掘り起こす。その一部はガルーサ・ネットにコンテンツとして売られることもあるが、残りは自分だけで保管して他人に見せない。そして、場に残っていた情報の痕跡を改変し、他の検証士が読めないように消し去ってしまう。
ガリデュエの最も恐ろしい能力が、これだった。物や場所に染みついた痕跡を自在にいじれるのだ。それは人間相手、更にはカイスト相手にも通じる。いつの間にか自分の記憶や性質を改変されていても気づかない、そういうことがあり得るのだ。カイストにとって記憶と力は何より重要なもので、力は積み重ねた修行の記憶が保証する。カイストとして歩き続けるだけの理由、自分の原点の記憶まで失ってしまう……それは存在を根底から脅かされるほどの恐怖だ。
相手が望まない限り記憶をいじったりはしないとガリデュエは宣言している。ただし、殺意を持って攻撃してくる者は除いて。過去にはこの悪辣な検証士を成敗しようと幾人ものカイストがガリデュエを襲ったが、あらゆる記憶を消され廃人となった者、性格を変えられたり得意技がなくなったり妙な癖がついたりした者、思考力を失い攻撃衝動だけの怪物と化した者、何が起きたのか誰にも知られぬままひっそりと墜滅した者など、様々に悲惨な末路を辿ったため今となってはガリデュエに手出ししようとする馬鹿はいない。
ガリデュエは強さを求める戦士ではないので、フィロスもわざわざ自分をいじくられるリスクを冒さず紳士的なつき合いに留めている。その気になればいつでも一瞬で八つ裂きに出来ると思いながら。その思考も読み取っているのだろうが、ガリデュエはいつも面白そうに見守るだけだ。
現地での合流。ミシュタムの一惑星エトマフ。北半球最大の大陸の、南西部を支配する大国の王都で二人は待ち合わせた。
フィロスは失った刃の半数ほどが再生したが、右腕と右目は漸く疼かなくなった程度だ。王都ではBクラスのカイストが将軍を務めていて、慌ててフィロスを王都の大門で出迎え及び腰の臨戦態勢を取った。今回の用事の間に騒ぎを起こしたくなかったので殺しは控えるつもりで、別の世界で二十万人ほど殺戮を済ませてきている。だが、カイストの戦士相手なら自粛の必要もないか。と思っているとガリデュエが現れたため血を見ずに場が収まってしまった。
「やあやあ久しぶりじゃの」
手袋を填めた手を振り振り、ガリデュエは気楽に挨拶した。外見年齢は七十代から八十代、ロングコート並みに裾の長いシャツを着て、白い帯で目元を完全に覆っている。帯の奥の眼窩が空洞であることをフィロスは知っている。彼の目は普通では見えないものを見るために異なる次元を巡っているらしい。『裏の目』と呼ばれる所以だ。
「待たせたようだな」
フィロスは応じる。ガリデュエは王都の内側からやってきたのだ。
「大したことはないぞ。『八つ裂き王』の呼び出しじゃからな、十年だろうが百年だろうが待つわい」
ガリデュエは目元の帯を歪めてニカッと笑った。本物の目の代わりに、帯には単純な目の絵が描いてあった。彼は顔筋の動きでうまく目の表情を変える。
親しい友人のようなガリデュエの台詞だが、実際の仲は良くも何ともない。フィロスの『珍しい体験』に期待しているのだ。
「では、行くかの。案内してくれるんじゃろ」
ガリデュエが歩み寄りフィロスの横に立つ。ゾワリ、と結界に触れるような感覚があったが一瞬で消える。ガリデュエの力に接したのだ。もしガリデュエがその気なら、悟られぬまま好き勝手にフィロスの中身を覗き、いじくれるだろう。その緊張を察し、ガリデュエはフィロスの方を向いてまた意地の悪い笑みを浮かべた。
やはりこの男といると嫌な気分になる。しかしフィロスはどうしても、ガリデュエに答えを探ってもらう必要があったのだ。
膝を震わせているカイストの将軍を放置して二人は出発する。当時の記憶とデータベースで参照した地図を合わせ、軽めの加速歩行で草原を森を荒野を飛ばしていく。ガリデュエは長い白髪と髭を揺らしながら何も言わずについてくる。
事前の連絡では、不可解な負け方をしたので確認して欲しいという簡単な内容しか伝えていない。しかし一緒に走って二時間、フィロスが何を気にしているのかガリデュエはとっくに読み取っているだろう。フィロスについてはいい。だが問題は、相手側だ。
ワユタ村はなくなっていた。
人口百二十二人の小さな村は、今や荒れ果てた廃墟と化していた。フィロスが耕した畑には雑草がはびこり、フィロスが整えた水路は涸れていた。元々粗末だった家屋は人が離れてかなり経つようで朽ち汚れているが、焼け落ちたらしきものも多いことが気になった。村は襲撃されたのだろうか。焼き討ちされたのか。ガルーサ・ネットのデータベースにも流石にマイナーな惑星の小村の経緯は載っていなかった。
フィロスは首に収まった内臓に、奇妙な痛みを覚える。
それは、自分が苦労して貢献したものが無に帰してしまったという悔恨。人が死ぬのは必然で、村や町、更には国や星が滅ぶのもよくあることだ。フィロス自身が無数にそれを行ってきた。だから村一つ滅ぼうが気にすることではない。なのに……。
自分が助けた村が自分以外の手で滅ぶとは、こんなに気持ち悪いものなのか。
それともう一つ。自分が失敗したのではないかという、恐ろしい、不安。村を助けたつもりが、ちゃんと助かっていなかったのではないか。正しいと思って指導した農法がうまくいかなかったとか、同様の苦境にあった他の村や盗賊団に襲撃され略奪を受けたとか。フィロスがきちんとフォローしていれば滅ばなかったかも知れないのに、苦手な役割だからと早々に逃げたせいで、あのロロカという幼女の願いに応えられなかったのだとしたら。フィロスに勝った者がフィロスの手抜きのせいで悲惨な末路を遂げたのだとしたら。それがとても恐ろしく、恐ろしく、とにかく、恐ろしかったのだ。
「ふむふむ、うむ、うむ。……フィロスよ、杞憂じゃぞ」
ガリデュエは両手で宙を撫でるようにしながら廃墟をうろついていたが、やがて薄ら笑いを浮かべてフィロスに告げた。
「このワユタ村が閉村したのは六十二年前じゃ。当時ここのレスコ王国は隣の国に侵略されておっての。ワユタ村の住民は皆近くの都市に避難した。ナルワナという、お主がロロカを連れて買い出しに行った都市じゃ。戦争が十年以上も続いたのと、うまいこと生活基盤が整ったので、そのままナルワナに移住したようじゃな。廃村となったところに後から野盗が住み着いて、都市の兵に討伐されとる。焼け落ちた跡はそのためじゃよ」
「そうだったか」
フィロスは少し安堵した。敗者として役目は果たせていたようだ。だが、今回の本題はそこではない。
「うむ、こっちはもういいじゃろ。湖の方に……あー、その前にこいつを見せておくかの」
ガリデュエが手招きする。ロロカの家があった近くだ。
指差した草地に僅かな凹みが幾つか残る。それと、朽ちた木片。
「小さな祠があったところじゃ。お主を祀った祠じゃよ。野盗に薪にされてしもうたがの」
ガリデュエは言った。
「建てたのは当時の村長じゃ。廃村になる頃には何のための祠か忘れられつつあったが、少なくともロロカは生きとった間、毎日供え物をしとったぞ。大きな赤い神様にな」
「……そうか」
フィロスは頷く。胸の内に生じたざわめきの正体が何なのか、分からないまま。
「じゃあ次は湖じゃな」
案内せずともガリデュエはひょいひょい先を行く。フィロスはついていきながら、赤いマントの裾を掴んで引っ張っていく幼女の姿を幻視した。
湖畔はあの時よりも草が伸びていたが、そのままあった。
「そこだ。我はその場所に立っていた」
フィロスが指差した先に、「ふむ、ふむ」とガリデュエが歩み寄る。彼は腕組みをして、首を斜めにかしげた。
「うん、うん……。そうか。そうか」
わざとらしく独りで何度も頷き、ガリデュエは振り向いた。もう読み終えたようだ。抱えていた巨大な謎がほんの十秒ほどで解かれてしまったらしいことに苛立ちを覚えつつ、フィロスは尋ねる。
「我が何故敗れたのか、分かったのか」
「うむ。分かったぞ」
あっさりガリデュエは答える。
「何故、我は敗れたのだ」
「自分ではどう思っとるんじゃ、フィロス。まずそれを聞いてみたいのう。参考までに」
「……色々と、考えてはいた。カイエンス・パラドックス、ではなかろう。そもそも我は相手の存在に気づかなかったのだから。可能性が高いのは、前の戦いで脳にダメージが残っており、知らぬ間に感覚の一部が欠落していたということだ。または『夢花火』幻城レベルの幻術士に効果時間の長い術を掛けられ、感覚を狂わされておったのかも知れぬ。或いは、『無手勝』コウ・オージの長い手によって状況が導かれたか。あの『救い』と名乗る胡乱な存在が関与していた可能性も……ないとは言えぬ。我も何度か会ったことがあるからな。それとも、ひょっとすると、過去にそなたへの殺意を抑えきれずに攻撃してしまい、既に我は狂わされ、そしてそのこと自体忘れさせられているのかも知れぬ。……後は、これは可能性は極めて低いと思うが、あのロロカという娘は擬態したAクラスのカイストであったということも……いや……ないだろうが……『名優』ギノスクラーレが一般人のふりをしても滲む我力を察知出来るからな。だが、可能性を完全に否定も出来ぬ。この二百二十四年、惑い続けてきた」
フィロスの言葉を味わうように、ガリデュエはゆっくり頷いてから言った。
「うむ、そうか。全部違うぞ。勿論わしがやったんでもない」
その時フィロスは、ホッとしたような不安にさせられるような、訳の分からない感覚に襲われた。
「ならば答えは何だ」
「うん。フィロスよ。元々お主の感覚が歪んどるのじゃよ」
「何」
「お主は出立してから二百七十五億年になる。その間、殺して殺して殺しまくってきたのう。戦闘と無差別殺戮だけに力を注いできたのう」
「その通りだ」
それが悪いか。いや、ガリデュエが倫理を語ることはないから非難の意味でないことは分かっている。
「敵を殺すこと、獲物を殺すことばかりに躍起になって、感覚がそれに特化してしもうたんじゃよ。お主の探す獲物とは、お主の発する巨大な殺気に緊張し、怯え、恐怖する、そういう奴らばかりじゃった。結果的にな。お主はいつの間にか、相手のそんな反応を目安に獲物を探すようになってしもうたんじゃよ」
そうだろうか。納得出来るような、そうでないような……やはり引っ掛かる。フィロスは問い質す。
「だが我は生物でないただの物体の接近にも気づくぞ。そうでなければ飛び道具を防げぬ」
「飛び道具には気づくじゃろうが、道端の石ころはどうじゃ。風で流れてくる砂の一粒にはどうじゃ。そもそも細菌などの微生物はそこら中におるが、お主はそれをいちいち意識しとらんじゃろ。そういうことじゃよ」
そうだろうか。フィロスは考える。転がっている石などは、戦場において自分が踏むかも知れない場合は意識するが、そうでなければわざわざ気にしないだろう。必要があるものを選別して意識しているということか。微生物は……確かに、意識していない。あれらは思考力も意思も持たないため、所謂生物とは別の類のものだとフィロスは考える。ならば、ガリデュエの説は正しいのか……。
しかし、何にせよ、あらゆる生物を怯えさせるフィロスという存在に、緊張も怯えも抱かなかったあの幼女は特別ということになりはしないか。
「特に、のう……あれは、お主にとっては未知のものじゃったんじゃな。慣れぬものに対しては過敏になることも多いが、お主は獲物の他の要素に鋭敏になろうとして、そういうものに対して完全に死角が出来てしもうたんじゃろう」
「何のことだ」
「混じりけのない、純粋な期待と信頼じゃよ。ロロカは確かに警戒心や恐怖を抱く感性が欠落しとったようじゃがな。神様を探していて、大きくて赤い、奇妙なものを見た。彼女はそれを特別なものだと思い、神様だと信じた。困っている村を助けに来てくれた神様だと、無邪気に信じたのじゃよ。そしてお主は死角から刺された。命のやり取りではないが、確かにお主の完敗じゃよ」
「……そうか」
そうか。純粋な期待と信頼、か。
確かにそういうものを受けたことはなかった。フィロスはただ自分が強くなりたかっただけで、そういうものを求めていなかったし、端から諦めてもいたのだろう。だから、無邪気な幼女に敗れたのだ。
フィロスはやっと腑に落ちた気がした。悔しさとは違う何かを感じた。負けたのは確かなのだが、次は勝つべきなのか、対策すべきなのか、自分でもよく分からなかった。
「痕跡を消しておくかね。今のところこのイベントを読んだ検証士はおらんぞ」
ガリデュエが尋ねた。フィロスが彼を呼んだのは、恥ずかしい敗北の痕跡を誰にも知られず消してしまえる男だからだ。
だが、フィロスは首を振った。
「そのままで良い。それよりも知りたいことがある。あれからロロカは……」
「うん、長生きしたぞ。結婚して子供が六人、孫が三十八人出来て、家族に見守られながら九十三才で死んだ。大往生じゃな」
「そうか。彼女は幸せだったか」
「そうじゃな。この世界の生活水準としては平均的な方じゃが、少なくとも彼女は満足しておったぞ」
「そうか。ならば良い」
フィロスは頷いた。胸の内に奇妙な感覚が染み渡っていった。悪くない、感覚だった。なので王都の将軍カイストを殺すだけに留めて静かに星を去った。